コミティア参戦記3 『源頼朝の本。』『治承四「一一八〇」年」石橋山の戦い』佐殿 - 流水成道blog

| Main |

 

コミティア参戦記3 『源頼朝の本。』『治承四「一一八〇」年」石橋山の戦い』佐殿

| トラックバック(0)

 8月23日のコミティアの戦利品の紹介、第1弾はその名も『源頼朝の本。』と『治承四「一一八〇」年」石橋山の戦い』

歴史同人サークル「佐殿」のユキノ様の作です。

 yoritomo1.JPGyoritomo2.JPG

どちらも鎌倉幕府で武家政権を創始した源頼朝を主人公とした漫画です石橋山の戦いの漫画はブログで公開されていますので、そちらで読みましょう。石橋山の戦いとは頼朝の挙兵後、最大の山場であり、ピンチだった戦いです。

ishimashiyama.png

 

頼朝は流人の身のまま20年以上を過ごし、平家の疑いを受けぬよう読経に精進していた。頼朝は北条時政の娘政子を妻とし一女をもうけ、伊豆国の豪族北条氏が流人の頼朝の庇護者となる。

治承4年(1180年)後白河法皇の子の以仁王は摂津源氏の源頼政とともに平家打倒の挙兵を決意。諸国の源氏に令旨を送り蜂起を促した。その使者となったのが頼朝の叔父の行家である。4月27日に行家は蛭ヶ小島(または北条館)を訪れた。頼朝は水干に着替え、男山八幡に遥拝した後に謹んで令旨を拝読。行家は甲斐・信濃へ赴くためにすぐに立ち去った。

5月、挙兵計画が発覚し、以仁王と頼政は準備不十分のまま挙兵を余儀なくされ、平家の追討を受けて戦死(以仁王の挙兵)。6月24日、京の三善康信(頼朝の乳母の妹の子)が平家が諸国の源氏を追討しようとしているので直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるようにと急報を送ってきた。27日に京より下った三浦義澄、千葉胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告。頼朝は東国での挙兵を決断する。

 

石橋山の戦い - Wikipedia

流人として過ごしていた頼朝のもとへ、 以仁王から平家打倒の令旨(皇族の命令)が届く。しかし、令旨を送ったことが平家にバレた以仁王は、平家から攻められ討ち死にしてしまう。源氏に令旨が送られたことがバレているので、すぐに平家は頼朝を討伐にやってくるだろう。このままでは討たれてしまうということで、少ない手勢ながら頼朝は挙兵を決意する。

頼朝は山木館で勝利するも、味方と合流できず石橋山で捕捉されてしまい300騎で3000騎と戦い敗れるも、平家方にいた梶原景時に見逃され、辛くも逃れる。千葉に上陸した後に、安西氏、千葉氏、上総氏などを味方につけ、富士川の戦いで勝利し、関東を制する。

8月23日は石橋山の戦いがあった日だそうで、その日に向けてコミケ後の1週間で作ったそうです。コミティアの日は、そういう日だったのかと思うと、感慨深いです。

また、義経が主人公になることは時々ありますが、頼朝はあまり無いですね。だからこそ、頼朝の本なんてものを見つけた時は嬉しかったです。以前、少し調べたのですが、義経は軍事の天才でしたが、頼朝は政治の天才でした。政治は軍事の戦闘シーンより分かりにくいので、頼朝を主人公にしにくかったのだと思います。

 

471px-Minamoto_no_Yoritomo.jpg

 

頼朝の政治の凄いところはいくつもあります。

まず、京から距離を置いた事。平家や木曾義仲のように京に入ってしまうと腐敗した朝廷に取り込まれてしまう。そこで根拠地の関東を日本の中心に変更した。この発想はなかなか出ないです。

また、御家人制度で御家人間の平等を実現した。この平等意識が新しいです。頼朝の天下草創 日本の歴史09 (講談社学術文庫)によれば、当時、家人という配下の武士、家礼という客分の武士、という意味でした。流人だった頼朝は配下が少なかったため、血筋に拘らず、広く人材を受け入れ、有力な者は頼朝直属の武士という意味で御をつけて御家人と呼ぶようにしました。そして、御家人にも大きな勢力、小さな勢力がありましたが、御家人は保持する勢力の大きさにかかわらず、対等の扱いをした。

 将軍である頼朝 ー 御家人 ー その他の人々

という、ある意味3種類の身分しかないです。役職は色々ありますが、平等という意識がありました。武士団の連合政権ですので、『武士団を対等に扱わないと成り立たない』という構造になっています。 

京の律令制国家は、天皇と平等な人民しかいないという建前でしたが、多重の階層を持つ官僚制によって支える必要があった。律令制では王土王民といい王以外は平等という建前ですが、位階が30階層もあります。貴族の子は貴族に成れましたが、それ以外の人は位階に壁があり、有力な血筋の貴族以外、位階を上っていく事は不可能です。やがて世襲の実務能力の無い貴族で上層部が埋められてしまい、機能不全になりました。武士は領地を経営していましたので、実務の素地がありました。30階層もあれば、上下の意思の伝達は不可能です。武士は御家人制で、組織をできるだけ単純にしましたので、いざというときは上下を合わせた全体を動かせるようになりました。

そして、人情の機微を理解していた事。東国武士は、九州の防人、京の大番役、東北の蝦夷討伐と各地に動員されましたが、その苦労が報われず、使い捨てにされていた。そのような武士の地位を向上し、暮らしを守るという大義名分を打ち立てました。朝廷の命令だけを名目に動いていては、やがて使い捨てにされたでしょうが、それを見越して別の大義名分を立てた。そのように人心掌握に優れていたし、先を読む力もあった。これは義経にない能力です。

この『源頼朝の本。』という漫画でも、苦労人で人情家。涙もろい時もある、というように書かれています。

歴史から学ぶことは大きいです。

 

松浦彰夫 拝

 

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://jyoudou.net/mt5/mt-tb.cgi/2916

| Main |

このブログ記事について

このページは、松浦彰夫が2009年9月 9日 06:11に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「コミティア参戦記2 戦利品の山」です。

次のブログ記事は「深聞ブログの使い方」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Podcast購読

iTunesのPodcastメニューの画面にこのアイコンをドラッグ&ドロップすることで、番組を登録できます。



メルマガ購読

2014年12月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
Powered by Movable Type 5.02