2010年2月アーカイブ

1 2 >>

写真部結成

| コメント(0) | トラックバック(0)

写真サークルを作ることにしました。名前はまだない。

活動内容は、風景か、コスプレ写真・動画を撮って、インターネットとコミケとで発表することです。
当面は静岡コミックライブとか地元で活動して、充実してきたら東京とか大阪に進出する予定です。

そういうことで、メンバーを募集します。
1)カメラマン 写真や動画を撮る人
2)モデル モデルごとに写真集・DVDを出す
3)イラストレイター すぐにではないですが、イラスト集とか同人漫画も出したいです
4)デザイナー 出版物の構成を考える人

どんどん来てください。よろしくお願いします。

儲かるようなら利益を分配しますが、儲かるまでは趣味として楽しめれば損にはならないと思ってます。
カメラマンは撮影技術が向上するだろうし、モデルは撮られるのが上手くなるはずです。

ちなみに、今まで撮った写真です。古い順です。
http://www.myalbum.jp/Pc/Albm_Dspy.aspx?albumID=7c4afd3a8dde
http://picasaweb.google.com/colorful555
http://picasaweb.google.com/jyoudou

段々上手くなっているつもりです。

 

松浦彰夫 拝

彭湃(ほうはい)は軍隊化した農村主義者の発案者でした。この方針は、農民の出身である毛沢東のが取り上げ、理論化されたのが有名な「湖南農民運動視察報告」(1927)です。当時、蒋介石の国民党の弾圧下に総崩れの状態にあった、都市的・労働者てきな共産党主義運動に代わる案として急速に力を得ていきました。そして、1928年位は「赤色基地」を建設するにいたり、1931年11月7日(ロシアの十月革命の記念日)に中華ソビエト共和国の成立が宣言されたました。そして、毛沢東は人民委員会の主席となったのでした。

革命の力学を国家の建設に集中し、さらには、本質的に好戦的なその国家を、敵の傀儡国家(この場合は蒋介石の指導する南京の中央政府のこと)とその軍隊に打ち勝つような軍隊を建設するのが目的でした。この点において、中国の場合は、ロシアの初期ボリシェヴィスムから遠く離れていますが、マルクス主義からはさらに遠いといえるのです。権力獲得と民族的・革命的国家強化の戦略へと単純かされたボリシェヴィスムを媒介することで、中国共産党の創立者達は共産主義にたどりついたのでした。このようにして中国共産党が勝利する所では、兵営社会主義(特別法廷と銃殺用射撃班)が存在することになりました。このモデルを提供したのが彭湃だったのです。

1936年から1938年のスターリンの「大テロル」より先に、中国のソビエトで大テロルがありました。推定では1927年から1931年のあいだに江西省だけで、戦闘によらない犠牲者を18万6000人も出したのです。大半は急進的土地改革、重税、軍事的必要による青年の動員などへの抵抗でした。住民のいだいた嫌悪感は根強いものだったのです。農民に課せられた税の負担は恐るべきもので、1941年には収穫の35%が天引きされ、これは国民党が保持する地域の4倍に相当したのです。村人たちは公然と、毛沢東の死を望むようになりました。共産党は抑圧を加えましたが、譲歩もせざるをえませんでした。つまり、阿片の栽培と輸出を行い基地の公的収入を賄ったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

1928年1月、ある紅旗の村に彭湃(ほうはい)が指導していた中国における最初の「ソビエト」の部隊がやってきたとき、村民は熱烈な気持ちでソビエト政権に加わりました。共産主義者は演説によって地元民の憎悪をかきたて、最終的には、理路整然たる自分たちのメッセージを通じて、村民の心を獲得したのです。同時に、新参党員が残酷きわまる衝動に身をまかせることを認めたのでした。このようにして、文化大革命やクメール・ルージュ政権が最も荒れ狂った時期の予兆というべきものが、それより、4、50年も前に、1927年から1928年にかけての数ヶ月間に起こったのでした。

1922年以降、共産党が組織した農民組合が展開する煽動によって「貧農」と、弾劾される「地主」との極端な二極化へと到達していきました。借金の棒引きと小作制の廃止によって広汎な指示をかちえていたソビエトを参考に、彭湃(ほうはい)は「民主的テロル」の体制を確立するためにこれを利用したのでした。全人民は「反革命主義者」の公開裁判に招かれ、被告はいつも同じように死刑を宣告されたのです。人民は処刑に参加し、犠牲者を少しずつ切り刻む赤衛隊にむかって「殺せ、殺せ」と叫び、時にはその肉片を料理して食らい、あるいはまだ息絶えていない受刑者の目の前で、その家族に食べさせたのです。すべての人が宴会に招かれて、元地主の肝臓や心臓を分け合ったのでした。

のちにポル・ポトのカンボジアでも見られた、復讐のための人肉食(カニバリズム)の嗜好はは広く東アジアに行きわたっており、中国史でも極端な変動期にしばしば出現していました。たとえば、随王朝の煬帝は613年の高句麗侵略期にあたり最も遠い親戚までも迫害することで反逆者に復讐したのです。「最も重い処罰を受けた者たちは、四つ裂きの刑のうえ、機微を竿の上にさらされるか、四肢を切り取ったうえ、矢で射すくめる刑に処せられなければならなかった。皇帝は高官たちに、被害者の肉を一切れ一切れと呑み込むよう厳命を発した」偉大な作家であり、共産主義が民族主義・反西欧主義と一体化する以前異共産主義を賛美していた魯迅(ろじん)は書いています。「中国人は人食種である」・・・と。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
テロルと切り離せない革命(1927ー1946)

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

三方よしの実現方法

| コメント(0) | トラックバック(1)

「三方よし」という理念

「三方よし」とは、「売り手よし、買い手よし、世間よし」というもので、近江商人の家訓として伝わっていたものです。

sanpouyoshi.gif

理念|三方よし研究所

売り手、買い手、世間の3者がそれぞれの利益をあげ、Win-Win-Winの関係を築くことで、経済の長期的な発展が成りたつ。自分の利益だけを追求したら、信用を失い失敗する。すばらしい理念だと思います。

 

「三方よし」でない経済

経済の目標として三方よしを設定するとしたら、三方よしでない社会を三方よしの経済に変えていくことになります。三方よしでない経済とは、どういうものになるでしょうか。

よいものがあれば悪いものもあります。経済において利益が有るのが善し(よし)、利益が無いのが悪し(あし)とします。

三方よしあし
  売り手 買い手 世間
1 ○善し ○善し ○善し
2 ○善し ○善し ×悪し
3 ○善し ×悪し ○善し
4 ○善し ×悪し ×悪し
5 ×悪し ○善し ○善し
6 ×悪し ○善し ×悪し
7 ×悪し ×悪し ○善し
8 ×悪し ×悪し ×悪し

 主体が3つあって、それぞれの状態が2つなので、組み合わせは8つになります。

1)三方よしの状態です。

2)生産者と消費者に利益があるが、世間が不利益。公害を出したり、麻薬を販売したりなどの反社会的な商活動をしている状態です。

3)生産者と世間に利益があるが、消費者が不利益。欲しくないものや、必要ないものを無理やり買わされている状態です。植民地の人が過去に必要でなかったものを買わされるのがこの状態でしょうか。宣伝などで煽られて、買い物依存症になるのもこの状態です。消費者の借金が増えていき、自己破産になるでしょう。

4)生産者に利益があるが、消費者と世間が不利益。低品質のものを売られて、リコールが起こる状態です。詐欺で無価値なものを売りつけられるのも、この状態です。

5)消費者と世間に利益があるが、生産者が不利益。製品の売値が下がって仕方なく赤字で販売するのがこの状態にあたるでしょうか。

6)消費者に利益があるが、生産者と世間が不利益。客なら何をしても許されると考えるモンスター化した消費者がこの状態にあたります。

7)世間に利益があるが、生産者と消費者が不利益。チェルノブイリのように人が居なくなって自然環境が回復するとか、戦争で物や人命を浪費してデフレ不況回復、という状態にあたります。

8)利益をあげる主体が居ない。商活動が成り立たない状態です。内戦が起こり無法地帯になればこうなるでしょうか。

 

「三方よし」への道

こうして書き出してみると、三方よしでない経済のパターンは多いです。

特に2の公害や反社会的商活動の場合、隠蔽されていますし儲かりますから、長続きして被害が拡大しますので、問題が根深いです。2の対策としては、まず隠蔽対策です。世間に対する悪事をしないか監視し、悪事をした場合は情報公開します。次に儲からなくする。不買運動を起こすなどして兵糧攻めにします。しかし、兵糧攻めが効きにくい悪事があります。政府と結託している悪事というのがあり、政府から資金が供給されますのでしぶといです。この場合は、情報公開をしぶとく続けて、持久戦で政治を変えていくことになります。

2以外も対策の基本は同じになります。情報公開で誰が不利益を被っているのかを明らかにして、兵糧攻めをするのが、効率の良い方法だと思います。

一番良いのは、生産者、消費者、世間、それぞれの当事者が、悪事をしないように気をつけることです。独占状態になるのも良くありません。適当なライバルがいることで腐敗や横暴な行為を防げます。悪事を行なえば、そのライバルに市場を奪われますので、抑止力になります。

「三方よし」が実現すれば信頼に満ちた社会になりますが、それでも油断は禁物です。安定に慣れてしまい、社会の発展が停滞することもあります。失敗は成功の元と言いますが、成功は失敗の元になることがあります。ある時点での優位点が、状況が変わった場合の弱点になる場合もあります。

永遠に完成しない目標を、永遠に追いかける。案外それが人間の幸福なのかもしれません。「遠足は前の日の晩が一番楽しい」ということがありませんか?目標は計画段階が一番楽しいものです。つまり、永遠に計画を立てていれば、永遠に楽しいのです。

 

松浦彰夫 拝

 

1927年4〜5月新政権の指導者蒋介石と地元の犯罪者集団かrなる秘密結社との同盟により数千人の共産主義者が処刑されました。アンドレ・マルローの「人間の条件」では共産主義者を機関車のボイラーに投げ込むような、ある種の処刑の残忍性について触れています。これら初期のエピソードは長征(1934〜1935年)と同様、大規模な殺戮を伴うものではなかったように思われますが、1937年〜1945年までの日本軍は、広大な中国の占領地域で無数の残虐行為を犯したのでした。

これらの行為よりも、はるかに多くの死者を出したのが1900年、1920〜1921年、および1928〜1930年の飢饉んでした。第二の飢饉は内戦による交通網の解体のためであり「虐殺」という言葉を使うことはできません。しかし、1942〜1943年にかけて河南の場合は収穫が壊滅的であったにもかかわらず、重慶の中央政府は減税を許さず、多くの農民が全財産を没収されたのです。農民達は無給のまま、長さ500キロメートルの対戦車壕の掘削のような夫役を課せられました。河南では内戦が口実になり得たとしても、農民の恨みは深かったのです。

間違いなく最も多数の死者をだした残虐行為はひっそりと展開され、ほとんど何の痕跡も残すことがありませんでした。それは、中国農村部という大洋のなかで、幹線からも遠く離れたところで、貧乏人が貧乏人にたいして行った戦いのことです。彼らは時には恐ろしい徒党を組んで、略奪し、恐喝し、身代金を強要し、抵抗する者を、人質を殺したのです。これらの盗賊たちが捕まると、農民達は嬉々としてかれらの処刑に立ち会ったのでした。

しかし、多くの場合、兵隊の方が盗賊よりさらに大きな災いだったのです。1931年福建省で2500人の兵士からなる部隊が、限度を超えた略奪と強姦を犯したため、憤激した農民のてで殺戮されました。1926年には湖南省西部の農民は、破れた軍閥の配下の「盗賊兵士」約5万を同じように処分したといわれています。1944年には、やはり同じ地方で日本軍が攻勢に転じた時、大勢の犠牲者をだした前年の夫役を思い出した農民たちは、敗走する兵隊を追跡し、時には生きながら埋めたのでした。死んだのは約5万人にのぼりました。とはいえ、この兵士さえも彼らを死刑にした農民と同じように哀れな連中でした。不運にも徴兵にとられ恐怖に怯えていた犠牲者にほかならなかったのです。アメリカのウェドマイヤー将軍の言葉を借りれば、徴兵制度こそ、飢饉や洪水と同じようにの村民に襲いかかり、自然災害以上の犠牲者を生み出したものだったのです。

その他おおくの反乱が起こりました。それらは土地税、阿片税、ブタの屠殺税、不正な裁判・・・など行政機関による収奪と感じられるものを目の敵にしていました。しかし、最悪の打撃は、しびしば農民自身が他の農民にむけて加えるものだったのです。村同士、氏族同士、残酷な戦いは田園を荒廃させ、消し難い憎悪を生み出したのでした。こうした抗争は、政治的なものでも、社会的なものでもなく、ただ、土地の小名士たちがこれによって支配を強化するだけのものだったのです。敵とされたのは移住者であり、川の反対側に住む人々にすぎなかったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

倫理的原理は超越的なビジョンから派生するのではなく、調和と社会運営の有効性とを重視するプラグマティズムから生まれるのです。これとは別に法家のプラグマティズムがあります。法家は孔子や孫子の同時代ですが、プラグマティズムは逆であり、社会を恫喝することで、国家がその全機能を確立する必要性を強調したものでした。秦の時代、法家思想は栄光の時期を迎えましたが、同時に社会を機能させる上での国家の根本的無効性を証明してしまいました。それは秦王朝が短命に終わったことでも明らかです。

秦の始皇帝(紀元前221〜210年)が、460人の知識人と行政官が生き埋めにしたこと、すべての古典文献を焼き払わせたこと、約2万人の地方貴族に死刑ないし流刑を言い渡したこと、万里の長城建設の為に何万人もの生命を犠牲にしたことは確かです。(毛沢東が秦の始皇帝をモデルとしたのも明らか)反対に漢王朝(紀元前206〜紀元220)になると儒教が力強い復活をとげ、暴政や頻繁な殺戮を経験することはなくなりました。秩序は厳正で、裁判は厳格であり、中世・近世ヨーロッパ諸国と比較しても人命はむしろよく保証されていたのです。

唐王朝(618年 - 690年・705年 - 907年)になってからの645年には人道的な刑法が公布されていました。反乱時の家族の連帯責任を問うことの廃止や、死刑執行の手続きが複雑で時間の掛 かるものになり、同時におぞましい刑罰が廃止されたのです。そのうえ、上訴の制度も設けられました。先のタイプの権力の恣意性は北宋王朝(960〜 1127年)移行は次第に少なくなっていったのです。

1850年の中国の人口は4億1000万人でしたが1873年には3億5000万人に減少しました。数々の大反乱・西洋帝国主義による度重なる侵略・窮乏化した人々の絶望の増大などを特徴とする激しい混乱期だったためです。太平天国の乱とその鎮圧(1851年〜1868年)の時は2000万〜1億の死者を出したとされていますが、意図的に殺戮されたのは、およそ100万人前後でした。共産主義革命家の登場に先立つ先行世代の生きた時代は、稀なレベルの暴力と価値観の崩壊に慣れていったのです。

しかし、20世紀前半の中国には毛沢東主義の猛威を予告するような要素はほとんど無かったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?

ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

1 2 >>

このアーカイブについて

このページには、2010年2月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2010年1月です。

次のアーカイブは2010年3月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

メルマガ購読

2010年9月

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
富士山の写真を購入希望の方は、メールかコメントで連絡してください。

全品10〜50%OFF!人気カラコン1980円〜。007速配コンタクト

【音の出る絵本】

ジョディ・フォスター★フライトプラン★レンタル保証!

人気コミックを全巻セット

PGS音楽市場

【オンライン書店ビーケーワン】話題の本・ベストセラー

SBCプレミアムイントラレーシック 今なら両眼12万8千円! たった20分で驚きの視力回復!0.06→1.5以上!!

ウイルス対策はエフセキュアインターネットセキュリティで決まり!

三牧ファミリー薬局
今週の特売


レンタルサーバー Xserver

【PR】ほしい商品も報酬も両方ゲット!A8.netのセルフバック
Powered by Movable Type 5.02