1927年4〜5月新政権の指導者蒋介石と地元の犯罪者集団かrなる秘密結社との同盟により数千人の共産主義者が処刑されました。アンドレ・マルローの「人間の条件」では共産主義者を機関車のボイラーに投げ込むような、ある種の処刑の残忍性について触れています。これら初期のエピソードは長征(1934〜1935年)と同様、大規模な殺戮を伴うものではなかったように思われますが、1937年〜1945年までの日本軍は、広大な中国の占領地域で無数の残虐行為を犯したのでした。
これらの行為よりも、はるかに多くの死者を出したのが1900年、1920〜1921年、および1928〜1930年の飢饉んでした。第二の飢饉は内戦による交通網の解体のためであり「虐殺」という言葉を使うことはできません。しかし、1942〜1943年にかけて河南の場合は収穫が壊滅的であったにもかかわらず、重慶の中央政府は減税を許さず、多くの農民が全財産を没収されたのです。農民達は無給のまま、長さ500キロメートルの対戦車壕の掘削のような夫役を課せられました。河南では内戦が口実になり得たとしても、農民の恨みは深かったのです。
間違いなく最も多数の死者をだした残虐行為はひっそりと展開され、ほとんど何の痕跡も残すことがありませんでした。それは、中国農村部という大洋のなかで、幹線からも遠く離れたところで、貧乏人が貧乏人にたいして行った戦いのことです。彼らは時には恐ろしい徒党を組んで、略奪し、恐喝し、身代金を強要し、抵抗する者を、人質を殺したのです。これらの盗賊たちが捕まると、農民達は嬉々としてかれらの処刑に立ち会ったのでした。
しかし、多くの場合、兵隊の方が盗賊よりさらに大きな災いだったのです。1931年福建省で2500人の兵士からなる部隊が、限度を超えた略奪と強姦を犯したため、憤激した農民のてで殺戮されました。1926年には湖南省西部の農民は、破れた軍閥の配下の「盗賊兵士」約5万を同じように処分したといわれています。1944年には、やはり同じ地方で日本軍が攻勢に転じた時、大勢の犠牲者をだした前年の夫役を思い出した農民たちは、敗走する兵隊を追跡し、時には生きながら埋めたのでした。死んだのは約5万人にのぼりました。とはいえ、この兵士さえも彼らを死刑にした農民と同じように哀れな連中でした。不運にも徴兵にとられ恐怖に怯えていた犠牲者にほかならなかったのです。アメリカのウェドマイヤー将軍の言葉を借りれば、徴兵制度こそ、飢饉や洪水と同じようにの村民に襲いかかり、自然災害以上の犠牲者を生み出したものだったのです。
その他おおくの反乱が起こりました。それらは土地税、阿片税、ブタの屠殺税、不正な裁判・・・など行政機関による収奪と感じられるものを目の敵にしていました。しかし、最悪の打撃は、しびしば農民自身が他の農民にむけて加えるものだったのです。村同士、氏族同士、残酷な戦いは田園を荒廃させ、消し難い憎悪を生み出したのでした。こうした抗争は、政治的なものでも、社会的なものでもなく、ただ、土地の小名士たちがこれによって支配を強化するだけのものだったのです。敵とされたのは移住者であり、川の反対側に住む人々にすぎなかったのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
暴力的伝統によるのか?
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo
暴力的伝統によるのか?4
トラックバック(0)
トラックバックURL: http://jyoudou.net/mt5/mt-tb.cgi/2983











コメントする