私の故郷は、奈良県の平群町という町です。そして今日、4月25日に、平城遷都1300年祭の一環としてへぐり時代祭りを行うそうです。残念ながら私は別の用事があって行けないのですが、良い機会なので紹介させていただきます。
へぐり時代祭りの開催について
平城遷都1300年となる来年(2010年)。
平群町では、平群の歴史を偲ばせる偉人たちが、町内を練り歩く「時代行列」や「催し」など、参加者が地域文化に触れながら楽しく過ごせるイベントとして「へぐり時代祭り 〜自然と歴史の玉手箱〜」を平成22年4月25日(日)くまがしステーション周辺にて開催します。
「へぐり時代祭り」の概要については現在企画を進めていますので、詳細につきましては、継続してお知らせしていきます。
時代行列の登場人物決定!
「へぐり時代祭り」のメインイベントである「時代行列」に登場する人物が決定しました。
平群町の歴史を彩った「偉人」たちというコンセプトにより、時代行列の登場人物の選定を実行委員会で協議した結果、
●倭 建命(やまとたけるのみこと)
●平群 木莵(へぐりのずく)
●役 行者(えんのぎょうじゃ)
●長屋王(ながやおう)
●吉備内親王(きびないしんのう)
●平群 廣足(へぐりのひろたり)
●命蓮上人(みょうれんしょうにん)
●松永 久秀 (まつながひさひで)
●嶋 左近(しまさこん)
以上9名の人物を選びました。いずれも平群の一時代を象徴する人物たちです。
「平城遷都1300年祭 へぐり時代祭り」 これまでの歩み
ゆるキャラは、せんとくん、左近くん、長屋くん、しぎとらくん、たつたひめ、 が参加するようです。人材が豊富で紹介しきれないので、また機会があれば紹介します。
歴史
古代の大和国平群郡平群郷の地である。古代豪族・平群氏の本拠地であり、平群神社、平群坐紀氏神社、平群石床神社などの延喜式内社が鎮座するのをはじめ、古墳64基が散在する。
信貴山縁起絵巻で有名な信貴山朝護孫子寺も町域に属する。
中世後期には、しばしば大和国を動かす中心地となる。1536年(天文5年)に木沢長政が信貴山城を築城、後に大和に入った松永久秀もこれを補修して居城とし、大和攻略の拠点とした。久秀の滅亡後は城は廃城とされている。
平群町 - Wikipedia
町の名前の由来は、古代氏族の平群氏です。歴史が長いです。
平群氏(へぐりし)は、武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣(おみ)、後に朝臣。
『日本書紀』の所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになった。葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。
これ以後、平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した。
平群氏 - Wikipedia
今で言えば、総理大臣になるくらいの勢力があったのですが、色々やりすぎて討伐されてしまったみたいです。平群真鳥は、竹内文書を書いたとされている人のようです。良くわからないですけど。
竹内文書(たけうちもんじょ/たけのうちもんじょ。磯原文書、天津教文書ともいう)とは、神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻んだ石、鉄剣など、一連の総称で、いわゆる古史古伝の書物であり、偽書とされている。
竹内文書 - Wikipedia
戦国時代には信貴山城がありました。松永久秀が織田信長に攻められて、平蜘蛛の釜に火薬を詰めて爆死。ど派手な死に方のため、歴史小説にたびたび登場します。
松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。別名 松永弾正 (まつなが だんじょう)。大和の戦国大名。
略歴
出身地は山城国とも播磨国ともいわれる。父は不明。嫡男に松永久通、養子に松永永種、また弟に松永長頼がいる。
はじめ三好長慶に仕えたが、やがて三好家家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。
一説には、第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者などとも言われる。
北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、信貴山城近郊の人々からは、連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られている。
松永久秀 - Wikipedia
平群には、もう1人戦国武将がいます。島清興です。平群の在地領主であり、筒井家家臣として松永久秀とは敵対していました。
島 清興(しま きよおき)は、安土桃山時代の武将で石田三成の家臣。通称である島 左近(しま さこん)の名で一般に広く知られる。本項目でも、特に断りが無い限りは「左近」と表記する。実名は俗に勝猛(かつたけ)などともいうが、文書から確かなのは清興である[1]。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの人物であった。娘(珠)は柳生利巌の継室で、剣豪として名高い柳生厳包は外孫にあたる。
出自
島氏[2]は今の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主で、椿井城を本拠にしていたとされる[3]。 島氏の出自は明らかでないが、本姓は藤原姓であるという。また、清興の出身を対馬国とする説もあったが、現在では大和国出身であることが明らかとなっている。なお、近年では「島左近」は筒井氏家臣である島氏代々の名乗りとする説もある
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、また北からの万一の伊達政宗の裏切りに備えて江戸からなかなか動けないはずの家康の美濃赤坂到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍側の中村一栄・有馬豊氏両隊に小競り合いを挑み(杭瀬川の戦い)、明石全登(宇喜多秀家家臣)隊と共に完勝した。しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、またもや三成に受け入れられずに終わった(夜襲はそもそも進言されていないという説もある。夜襲策の出典は『日本戦史(旧日本軍参謀本部編)』)。関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立ち奮戦するが黒田長政の鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷、一時撤退する(この時、死亡したとも)。正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなった。左近は討ち死にを覚悟して再び出陣、正面の田中吉政・黒田長政らの軍に突撃し、奮戦した末に敵の銃撃により討ち死にしたという。
最期の折の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となり、黒田隊の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれー!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたと言われる(常山紀談)。江戸初期、筑前福岡城において関ヶ原に出陣し、島を目撃した老いた武将達が島の服装について若侍相手に語り合ったが、物指、陣羽織、具足に至るまでそれぞれの記憶が違い一致するところがなかった。これは島のあまりの恐ろしさが故に記憶が定かではなかったためとしている[7]。
島清興 - Wikipedia
語りだしたらキリがなくなってきました。信貴山の動画を貼って、終わりにします。
【命蓮】信貴山・朝護孫子寺 参詣してきた【毘沙門天】‐ニコニコ動画(9)
松浦彰夫 拝