謀略は『誠』なり 秘録 陸軍中野学校 - 流水成道blog

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謀略は『誠』なり 秘録 陸軍中野学校

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陸軍中野学校は、日本陸軍の諜報員の教育機関であり、日中戦争・太平洋戦争で大きな活躍を果たした。

その陸軍中野学校の教育の根本にあったのは、「謀略は『誠』なり」の精神だった。一見、正反対に見える『謀略』がなぜ『誠』になるのか?

そこには現代にも通じる教訓があった。

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秘録・陸軍中野学校 (新潮文庫)

陸軍中野学校の前身となる後方勤務要員養成所が開所したのが昭和13年(1937年)7月、終戦が昭和20年(1945年)8月だから、活動は7年と短い。

日中戦争が始まったのが昭和13年(1937年)7月7日だから、世界の中でもかなり遅れた活動の開始だ。

それでも、その間に数百人の生徒を育て、暗号のコードブックの入手、敵地での情報収集、独立運動の支援、占領地での宣伝工作などを行った。

 

当時の日本の諜報活動は遅れていた。

日露戦争の講和、ロンドン官軍軍縮条約では、外交の通信を盗聴され、どこまで譲歩するか知られていた。不利な条約を締結させられ、日本は世界から馬鹿にされていた。

諜報の遅れの原因の1つに、徳川幕府がお家安泰のために作り上げた『武士道』観がある。つまり、平時における諜報活動を卑劣な行為とする観念が、日本人、なかでも軍人の間で盛んだった。

また、日清日露の戦勝に酔って、敗戦を知らない軍人の思い上がりなど、いくつかの原因がある。

しかし、一番の問題は、兵器の近代化を進めなかったのと同様に、諜報謀略の面でも日進月歩を考慮せず、日露戦争の『軍事探偵』時代と、ほとんど変わらない認識しかもっていなかったことにあった。

日露戦争は数回の『決戦』で決着が着いたが、第一次世界大戦は『消耗戦』であり、戦争は『総力戦』に変わり、国家は『軍事国家』から『戦時国家』に変わった。

つまり、国家の生産や宣伝など、あらゆる能力が戦争に影響するようになったので、軍隊の動きを知るだけでは勝てなくなった。

 

スパイは、1人で敵地に潜入し、数年、数十年、場合によっては数世代にわたって活動を続けなければいけない。

逆に、わずかな時間で結果を要求される場合もある。

外部の様々な出来事に振り回される。

成果を上げても発表されず、スパイとして捕まればすぐに殺される。

 

割に合わない仕事である。

このようなことは、命令されたからといって、できるものではない。

やる気、モチベーションを保ち続けることが重要になる。

モチベーションを保つには、自由に考えること、自発的に行動する事、そして仕事に誇りを持つ事が有効だ。

 

中国には、

「バカは将軍と間諜(スパイ)にはなれない」

という言葉があるし、英国にも、

「スパイこそ最高の知識人で、紳士でなければならない」

という鉄則がある。

アメリカやソ連のスパイ学校では、国内の大学からもっとも優秀な人材のみを選りすぐって入学させている。それも東大生のように学問が優れているだけではだめで、記憶力・注意力・運動神経・飲酒癖の有無・女ぐせからおしゃべりまで、本人ばかりでなく近親者まで調べた上で及落をきめる慎重さだ。

金のためのスパイは、金で寝返るので低く見られる。愛国心や理念で動くスパイは尊重される。

 

最高のスパイ先進国のイギリス人は、冒険心に富んでいて、スパイは最高の愛国の行為であると同時に、最高に知的なスポーツであると考えている。(007が理想像なのだろう)

ソ連のスパイは、共産主義の思想をもっていた。

 

このように、スパイは愛国心は当然持っていて、それに上乗せする理念が大きいほど優秀になる。

中野学校の場合は、それは日本人ならではの『誠』の精神だった。

 

諜報に対する意識が低かった日本だが、スパイの世界の歴史で並ぶ者が無い、天下無双の働きをしたスパイが存在した。

日露戦争時の、明石元二郎大佐(後の大将)だ。

ロシア皇帝のもとで、ロシアの国民の大部分は農業で生活していたが、貴族地主の農奴制で、農民一揆の勃発で農奴制を廃したものの、収穫の半分を地主や貴族が巻き上げるイスポル労働が続いていた。

また、民族同士結合しての反乱を恐れた政府は、ポーランド人に反乱があればユダヤ人の軍隊に鎮圧させ、ユダヤ人に反乱が起これば、ポーランド人に鎮圧させるという、毒をもって毒を制する政策を取っていた。民族同士が敵視し合い、国としての統一と、国民としての一致団結の精神に欠けていた。

日露戦争と同時にロシアを引き上げた明石大佐は、スウェーデンのストックホルムに行き、バラバラだった反政府活動家を集めて、説得した。資金を与え、ロシアに武器を運び込み、同時に反乱を起こさせた。

奉天会戦では、劣勢の中、旅順を攻略したばかりの野木大将の第3軍が休む間もなく駆けつけ、左翼に回り込むことにより、辛くも勝利した。

この時、明石大佐の工作により2軍団が足止めされており、これが奉天に着いていればロシアが勝っていた。

 

明石大佐は、日本軍の勝利はもちろん目的としていたが、それ以上に、虐げられている民衆を本気で助けようと考えた。終戦後も現地に残って、支援をしようとしていたことからもそれが伺える。

偽りの親切ではなく、本心からの親切、つまり『誠』があったから、バラバラだった人の心を動かし、団結させ、勝利につながったのである。

 

陸軍中野学校は、この明石元二郎大佐を目標にした。

倉庫で埃をかぶっていた明石大佐の報告書を探し出し、教科書とした。

「謀略は『誠』なり」が、陸軍中野学校の理念となった。

 

第2次世界大戦当時、アジアは欧米の植民地とされていた。

『対南方作戦宣伝資料の研究機関』づくりを命ぜられた、藤原岩市大尉は、南方を廻った。英、仏、蘭諸国の植民政策の中に、現地人に対して一片の愛情すらないことを発見した。同じ人間でありながら、白人と現地人の間には天地雲泥の経済的な差があり、人種偏見の越えがたい壁があった。どこの国でも、白人は征服者であり、現地人は奴隷である。白人は、現地人と飲食をともにすることすら絶対にしなかった。

 

鈴木敬司大佐の南機関は、ビルマ独立の志士30人を指導し、海南島で訓練を行った。同じ釜の飯を食べ、同じ寝床で眠り、時には歌を合唱して励ました。

彼らは、ビルマの独立を果たし、軍事政権との批判はあるものの現在のビルマへと続いている。

 

私利私欲のため戦争を始めた日本人もいただろうが、本気で現地人の幸せを願い、命をかけて戦った日本人がいたことも事実だろう。

 

松浦彰夫 拝

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このページは、松浦彰夫が2012年6月26日 03:51に書いたブログ記事です。

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