流水成道blog: 2014年12月アーカイブ

2014年12月アーカイブ

弩(いしゆみ)や火縄銃を量産し、矢や弾薬を大量にそろえたとします。

次は、それを持たせる兵隊が必要です。

大和朝廷や織田信長は、どこから兵隊を集めたのでしょうか。

sumiyosi1.sakimori3.jpg

埼玉県の埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳から、115文字が彫られて、金で彩色された鉄剣が見つかっています。

「乎獲居(おわけ)の臣(おみ)は、8代にわたって大王の親衛隊長をしており、獲加多支鹵(わかたける)大王の補佐をしていた時に、この剣を作らせた」ということと、先祖7代の人物名が書かれています。

獲加多支鹵(わかたける)大王とは雄略天皇で、吉備氏などの地方豪族を屈服させて中央集権を進めたり、朝鮮に出兵して高句麗や新羅と戦ったりした人物です。

115文字は刀剣に書かれた文字としては中国や朝鮮の事例よりも多く、私的な人物名を書かせていることから、刀鍛冶にかなり無理な命令を出せる地位にあったことが分かります。

熊本県の江田船山古墳からも、獲加多支鹵(わかたける)大王と書かれた鉄刀が見つかっていますが、こちらは銀の75文字なので少し格が落ちます。

また、埼玉の稲荷山古墳は仁徳天皇陵とそっくりの形で、ぴったり4分の1の大きさなので、同じ技術者が作ったことが分かります。

地方の豪族を登用するか、軍事を担当する豪族に地方の土地を与えるというように、兵隊は地方豪族から集めていました。

天智天皇の時代に白村江の戦いで敗戦した後、九州を防衛した防人は、東海道の遠江・駿河・相模・上総・下総・常陸 東山道の信濃・上野・武蔵・下野の10国から集められました。

これらは富士山の火山灰が降る地域であり、富士山が噴火していて農作物があまり育たなかったため、九州まで出稼ぎに行っていたとも考えられます。

なお防人は九州では農地を耕して、食料を自給していました。

このように大和朝廷の兵隊は農民兵なので、訓練が少なくてすむ弩が使われました。

 

また、坂上田村麻呂などの蝦夷討伐軍でも弩が活躍しました。

坂上田村麻呂は、漢の滅亡で日本にやってきた渡来人です。

川の鉄砲水を使った水攻めで、5000人中4000人が死亡するという被害を出した後は、防御を重視し、城を作って食料、武器弾薬を備蓄するようになりました。

また、食料、武器弾薬を輸送するため、街道も整備しました。

弩は、接近されたり、夜の暗い場所では使えないという弱点がありますが、夜は城にこもり、物資の輸送と備蓄を充実させ、昼間に数千の弩を一斉射撃するという戦略で蝦夷を屈服させることができました。

このように、異民族も軍隊に使いました。

 

200px-Eiraku-Tsuho.jpg

織田信長の旗印は、永楽通宝という当時の国際決済通貨でしたので、貨幣経済を基盤に軍隊を編成していたことが分かります。

織田信長は、楽市楽座、関所の廃止により、貨幣経済と人の交通を活発化させました。

金銭で米が買えるようになっていましたので、軍隊が農地を耕す必要がなくなり、貨幣を出せば日本中から兵隊志願者が集まってきました。給料で食料を買えば良いのです。

常備軍による軍事革命です。

武田勝頼は大和朝廷からの伝統の農民兵であり、常備軍より兵士を増やしにくいため、長篠の合戦で、織田信長に人数で負けることになりました。

織田軍は寄せ集めの軍隊でしたが、火縄銃を持たせて、馬防柵で防御を固めることで、武田軍を圧倒することができました。

 

連載1回目は、知識と技術力の話でした。

大和朝廷は、遣隋使、遣唐使で、お茶や紙など世界の文物を蒐集しました。

織田信長は、ルイスフロイスなどの宣教師から世界の話を聞き、地球儀や時計などももらっていました。

連載2回目は、経済力と補給の話でした。

大和朝廷は、鉄の貿易を独占し、農業生産を増大させました。

織田信長は、日本最大の港の堺を支配し、火薬と弾丸を独占し、南蛮貿易を活発化させました。

連載3回目は、兵士の募集の話でした。

大和朝廷の頃は、農業が未発達だったので農業を奨励し、人口を増やす事で兵士を増やしました。

織田信長の頃は、貨幣経済が未発達だったので貨幣経済を奨励し、兵士が自分から集まってくるようにして兵士を増やしました。

 

リーダーには、分配型のリーダーと冒険型のリーダーがいます。

分配型のリーダーは、他人から奪い味方に与えます。社会が拡大している時代は上手くいきますが、社会が縮小している時代には、味方を食わせられなくなり、弱い味方を殺して、強い味方を食わせます。

そのため縮小の時代に、内部分裂して、滅亡します。

高度成長期にうまくいっていたことが、現在の不況では上手くいかないのは、分配型のリーダーのせいです。

冒険型のリーダーは、外の世界に出かけて、知識や技術を持ち帰ります。

大和朝廷や、織田信長は冒険型のリーダーでした。

部下にとっては直接の利益は少なく、持ち出しの方が多いくらいですが、全体のパイを拡大するため損失以上の利益がありました。

今のような縮小の時代では、冒険型のリーダーが必要です。

 

松浦彰夫 拝

04_71.jpg

弩と鉄砲は簡単で強力な武器ですが、矢や弾丸が少ないと簡単に使えません。

弩も火縄銃も、1発撃って、次に撃つまでに1分くらいかかります。

こちらが1人だと、撃って外れた時や複数の敵がいる時は敵の接近を許してしまい、刀や槍に負けてしまいます。

そのため、弩や鉄砲は大量に用意し、大量に撃って弾幕を張ることで、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」と戦力になりました。

大和朝廷では、1軍団で1000挺の弩を配備していましたし、織田信長は、長篠の戦いで3000挺の銃を集めて使いました。

BU-010956-600idx.jpg

矢は鏃(やじり)によって威力が変わります。

石器時代は石や骨の鏃、古墳時代は青銅器の鏃でした。

大和朝廷は、鉄を大陸から輸入して、鉄の鏃を使いました。

矢は使えば無くなりますので、大量に必要です。

大和朝廷は、米の生産に力を入れており、寒くて食料があまり作れない朝鮮に米を輸出して、鉄を輸入していました。

そして、日本国内で鉄を独占販売しました。

img_1.jpeg

大和朝廷に認められた豪族だけが鉄を買うことができました。

武器だけでなく、農機具に鉄を使えば農業生産の効率が上がります。

鉄を持っている豪族と持っていない豪族が戦えば、持っている方が有利ですので、鉄は領地経営の権力の源泉でもありました。

3bf78011-s.jpg

織田信長は、上洛した後、真っ先に堺の港を押さえました。

そのため、火縄銃に必要な、火薬の原料の硝石や、弾の原料の鉛を独占的に輸入できるようになりました。

織田軍は、尾張、美濃から、畿内の順に支配地域を広げていきましたが、これらは交易が盛んな地域や、米の生産が多い地域を狙ったものでした。

今川義元や武田勝頼に勝った後、それらの領地を占領しなかったのは、儲からない土地だったからです。

2090endan.jpg

楽市・楽座によって貨幣経済を活発にした後で、米を石見銀山の銀に交換し、銀を輸出することで、硝石や鉛を大量に買うことができました。

銀を大量に輸出したため、戦国時代の世界で流通する銀の半分はポトシ銀山、もう半分は石見(いわみ)銀山から採掘されたものでした。

長篠の戦いでは、武田軍も鉄砲はありましたが、弾をほとんど持っていませんでしたので効果的に使うことができず、弾を大量に持っていて鉄砲を連射できる織田軍が勝ちました。

2090hayagou2.jpg

このように、弩や鉄砲を効果的に使うためには、交易のルートと経済力が必要でした。

経済力の源泉は、大和朝廷も織田信長も米でしたが、これは労働が人力で行われていたため、人が働くエネルギー源としての食料が重要だったためです。

現在の労働は機械で行いますので、現在で例えると、機械を動かすための電気や燃料を大量に生産していたようなものです。

 

松浦彰夫 拝

弩と鉄砲について、3回連続で記事を書きます。

第1回目は、弩と鉄砲の歴史について。

do01.jpg

古代の日本では、大和朝廷が各地の豪族をまとめて統一政権を立ち上げました。

その大和朝廷の主力の武器が弩(ど、いしゆみ)でした。

 

弩とは、弓を台の上に乗せ、引き金を取り付けたものです。

元々は、狩りに使われていましたが、古代の中国で武器として発展しました。

中国は北方の草原から騎馬民族が侵入しやすい土地です。

騎馬民族に対抗するため、騎馬隊を国境に置けば、独自勢力になって軍閥化して首都に攻め込んでくる危険があります。

そのため、騎馬隊は首都の近くに置いて監視しなければいけません。

国境では歩兵を置いていて、その歩兵に持たせた武器が弩でした。

 

弩の最大の特徴は、ほとんど訓練しなくても使えるということです。

普段は農民ですが、敵が攻めてきたときだけ弩を持たせれば充分な戦力になりました。

このように古代中国では弩が発達しましたが、特に優秀な弩を開発したのが秦の国です。

秦は優秀な弩を使って中国全土を征服し、中国で初の帝国を作りました。

do02.jpg

秦は3代で滅びましたが、その秦の始皇帝の子孫が朝鮮半島に辰韓という国を作ります。

その辰韓が新羅に圧迫され、応神天皇が船を出し、辰韓は国家丸ごと日本に亡命しました。

この時の辰韓の国民が秦氏であり、辰韓の王が弓月君です。

秦氏は、養蚕、機織、酒造、土木などの技術を日本にもたらしましたが、弩も伝えたと考えられます。

 

弩の製造方法は、大和朝廷の最高機密として管理され、国家の倉庫以外の弩の保有は禁じられました。

この弩が、坂上田村麻呂の蝦夷との戦い等に活躍しました。

また、新羅と内通した豪族に、弩の製造方法を盗まれるという事件もありましたが、新羅に伝えられる前に阻止されました。

大和朝廷は、国内を統一し、中国や朝鮮との戦争もほとんどなくなり、平和になったため、軍縮を行い、弩はあまり使われなくなりました。

gun01.jpg

時代が変わり、戦国時代に織田信長が鉄砲を大量に集めた理由は、大和朝廷が弩を保有していたのと同じです。

鉄砲は訓練しなくても強い武器でした。弩と同じです。

農民出身など、戦闘訓練をしていない兵士でも鉄砲を使えば、敵を倒すことができました。

鉄砲や弩は引き金を引くだけですが、槍や弓は長い訓練が必要です。

信長は暗殺がなければ、日本を統一していたと考えられます。

つまり、鉄砲や弩のように簡単で強い武器を揃えれば、秦や大和や織田信長のように国家を統一することができるということです。

 

松浦彰夫 拝

このアーカイブについて

このページには、2014年12月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2014年11月です。

次のアーカイブは2015年1月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Podcast購読

iTunesのPodcastメニューの画面にこのアイコンをドラッグ&ドロップすることで、番組を登録できます。



メルマガ購読

2015年1月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
Powered by Movable Type 5.02