流水成道blog: 社会アーカイブ

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忘年会で、伝えきれなかった事があります。

物事を好転させるには、正しい認識と、正しい行動の2つが必要です。

前回の記事では、世界大戦とそれによる苦難の未来を予測し、これは理解していただけました。認識を共有できたということです。

しかし、その認識に対して、行動を起こさせるまでには至りませんでした。どんな行動をするのも個人の自由意思ですが、協調して行動するなら、それなりの助言や利益を提示することができます。

3.11の東日本大地震の前に、G-Watcherとして放射線測定ネットワークを準備し、原発震災のドラマを作って警告を行いましたが、現実に原発震災が起こった時に行動できた人はほとんどいませんでした。

現実が変化した時、素早く行動するためには、事前の訓練が必要なのです。

 

日本のマスコミは事実と違う報道を行います。中でも日本人が勤勉だというのは大嘘です。

勤勉というのは勉強に勤めるという意味です。日本は学生も、大人も、一部 の例外を除いて自主的に勉強をしません。勤という文字は動物の骨を火で炙って粉々に砕いて、出し尽くすという意味です。勉という文字は分娩の娩に力を足した漢字です。女性が股を開いて力んで出産するように無理をして力んで絞り出すという意味です。暇な時間を使うとか、遊び感覚で 行うことを勤勉とは言いません。自主的に出産するぐらいの力を使い、動物の骨を火で炙って 粉々にするぐらいの行動を持って『勤勉』となります。日本の街を歩けば、大都市から田舎までパチンコやパチスロが駅前にあります。そこでは昼間から大勢の大人が博打をしています。場で朽ちるからバクチと言われるように、多くの人々が朽ちて行きます。

日本の大学生で自ら望んで24時間勉強のために使っている人は少数ですが、世界では自分からすすんで24時間勉強のために使うのが当たり前です。

日本の社会人は会社に入ったら勉強をしなくなりますが、世界では生涯学習が当たり前です。

ほとんどの日本人は勤勉な外国人と競争しても勝てないし、戦争を起こしたり、貧富の格差を拡大しようとしている政治家や役人にも勝てません。

では、どうすればいいでしょうか。

世阿弥は、自分の舞う姿を鳥の目線から見ることができたと言われています。離見の見です。

 ということは、天才は万物のあらゆる事象を直感的に知る能力を身につけていたとも言える。私の尊敬する天才数学者・岡潔さんの「情緒的知性」です。

 岡さんはこう言っています。物事を積み重ねていく論理的知性は、物事を分離していく。一方、情緒的知性は、いろいろな違う物事を強く結びつけていく。数学の理論にしても、物理の理論にしても、人間がつくりだすものは、情緒的な直観の部分が最初にあって、これが全体をつかみだしている、と。

 つまり、異なった多彩なものの中から、核心を見つけ出していく全能です。

 元々日本人の根本は、情。欧米的な知は不得手なので、欧米的理性主義に囚われ過ぎると全体像を見失ってしまう。岡さんは、数十年前にそんなことを危惧していたのです。

優しい天才の時代がやってくる:日経ビジネスオンライン

優しい天才という人々がいます。

自分のことだけを考えると孤立しますので、現実の変化の中に置き去りにされます。

他人に対する責任を考えると他人とつながりますので、変化に付いて行くことができます。

そして他人を助ける人を助ければ、その人が別の人を助け、そのまた次の人が助けるというように、協力関係が広がって行きますので、最初の人のためにもなります。

「情けは人のためならず」です。

 

松浦彰夫 拝

 

次回、第3章 世界の天才が集まる学園都市

昨日は、私が住んでいる東大阪市で市長と議会の選挙がありました。

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特に誰を応援しているわけではないですが、選挙公報を見て選んで、投票に行ってきました。こっちだと選挙公報が家庭に配られるのですね。前まで住んでいた所では無かったです。候補者を知るのに便利ですね。

市長に4人が立候補して、選ばれたのは現職の野田よしかず氏でした。86,744票。自由民主党、公明党、民主党、連合大阪推薦ということで、本命ですね。ホームページを見たら、前期の実績が書いてあって分かりやすかったです。公約は、「中小企業が元気なまちづくり」東大阪市は中小企業の工場が多い土地なんです。

2位は長尾淳三氏ですね。57,353票。前市長で無所属で元府議会議員。政策がPDFにしか書いていないので、読むのに少々手間がかかります。「おひさまプロジェクト」として、太陽光パネルを設置する公約があります。

3位が西野しげる氏。37,706票。東大阪維新の会。twitterとか動画とか、色々使ってますね。ヒガシオオサカ電力会社という自然エネルギー発電会社と株式会社ヒガシオオサカを作るという公約でした。

4位が美馬幸則氏。4,550票。ホームページは無し。元高校教師。EUとの関係を強化するという公約です。

市長候補者の紹介はこれくらいにして、東大阪市がどういうところかの紹介です。

まず、ラグビー好きにはご存知の近鉄花園ラグビー場があります。正月にテレビ中継をやってるのを良く見ました。

また、司馬遼太郎の生家が残っていて、司馬遼太郎記念館があります。

地形は元は沼地が多く、平野部が広いですが、東側は生駒山系の山で奈良県と接してます。山の上に生駒山上遊園地があります。子供の頃、ジェットコースターに乗ったら、大阪平野が見渡せてスリル満点でした。

歴史は古く、古代には物部氏の本拠地で石切劔箭神社が残っていたり、河内の国一ノ宮の平岡神社もあったりします。昔は大阪全体が沼地だったので、東のこのあたりは、まだましだったような感じです。飛鳥、奈良、平安時代と街道筋が栄え、室町時代には若江城が作られて河内統治の拠点になったようです。若江城は織田信長の石山本願寺攻めの拠点にもなってます。沼地の中の平城だったようです。

産業は、中小企業の密集地で、高い技術力を持った零細工場が集まっています。ただし、近年は減少傾向で住宅地になったりして、2007年には工業出荷額で隣市の八尾市に抜かれたようです。

技術交流プラザという施設があって、中小企業の紹介などを行っていますね。ウチのこれがすごいやろ!企業一覧の動画を見ると面白いです。東大阪ブランド推進機構産業技術支援 東大阪市立産業技術支援センターという施設もありますね。

技術を持つ企業を探している方は、利用してはどうでしょうか?

 

松浦彰夫 拝

アメリカやヨーロッパの契約社会では『得たものより与えたものを多くすれば名声が広がり、次の仕事になる』というルールになっているらしいです。

欧米は、奪い、奪われるという過酷な社会かと勝手に思ってたのですが、実はそうでも無いのかもしれません。常に価値を提供できなかれば解雇される厳しさがある反面、価値を生み出せると分かれば対価もあるし、人が集まってもっと大きな仕事ができるということでしょうか。

日本で同じ事ができるかどうかといえば、奥山清行氏は同じ方法で新幹線のデザインもしているということで、やればできるのだと思います。

与えた者が勝ちという仕組みを作れば、仕事が回る。

会 社と個人、あるいは自分のキャリア、仕事と個人というバランスシートがあって、日本の特に若い人に強く言いたいんですけれども、勘違いしているのは、若い 人が特に勘違いしているのは、自分は会社とか仕事から得るものだけ得て、一番得た時点で次のステップに移っていくのがキャリアアップである、と。実はこれ 大きい間違いでして、自分が与えたものと相手からいただいたものの中で、相手にあげた方の大きい場合に、次の仕事につながります。これはアメリカとかヨーロッパの契約社会で非常に重要な考え方で、得たものよりも与えたものの方が多いことが大切なんです。それでこの人間は優秀であるという名声が広がって、きちんとしたお給料なり、それに対する対価をいただいて、次の仕事をもらうという仕組みを作るのが、実はプロとして非常に大切なこと。

 

松浦彰夫 拝

エンツォ・フェラーリや秋田新幹線をデザインした奥山清行氏のCEDEC2011の2日目基調講演「「ムーンショット」 デザイン幸福論」の記事に感銘を受けましたので、要約と感想を書かせてもらいます。長いので何回かに分けます。

いつ来るか分からない15分のために常に準備をしているのがプロ、デザイナー奥山清行による「ムーンショット」デザイン幸福論 - GIGAZINE

日本人は団結力があると思っているが、実はまとまりがない。イタリアのサッカーとか、フェラーリのようなブランド企業を立ち上げる力というのは、ローマ時代からの民主主義の団体力である。

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逆に、日本人ほど哲学とか倫理観とか教育レベルとかそういったことの個人の力が高い国はなかった。しかしそういう人たちを5人以上集めると、幼稚園みたいなもんでまるでまとまらない。飲み屋ではすごいことを言うが、仕事では発言しない。それは卑怯であり、自分が考えていることを、その場で決められた時間の中で他の人とシェアしないのはプロとして犯罪に近い。イタリアでそれをやると二度と会議に呼ばれない。

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ただし、日本語で議論すると個人攻撃になりやすい。日本語は目上とか目下とか、男性とか女性とか、自分の相手に対する相対的な位置を示す感情を表す言葉があるのに対して、英語とかイタリア語っていうのは非常に少ない言葉で情報の内容を的確に相手に伝える言語の作りになっている。誰が何を言うかってことは重要なじゃなくて、その話の内容の方が重要だって順序になってる。だから日本語で、実は個人攻撃にならない議論の仕方というのは非常に高度な議論力が要る。これを小学校で教えられなかったので、社会人になって必死の思いでイタリアで勉強した。この「議論の仕方」をひとつの技術として、僕らは学ばなくちゃいけない。

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例えば100人と1億円があったとします。韓国とかアメリカの企業っていうのはそれを50人ずつふたつのチームに分けて5000万円ずつ与えれば、たいしたことないアイディアでもこれが面白いものになっちゃうんです。そうですよね?50人で5000万あったらば、日本の場合だとものが決められないからまずリサーチしましょうと言って、ひとりずつの100個のアイディアをリサーチしましょう、ということで1つのプロジェクトに100万円与えます。100万円もらってひとりで何しろって言うんですか?これが今の日本です。優れたアイディアが山ほどあっても、それぞれのアイディアが日の目を見ないのは、1人と 100万円を与えられても何の仕事ができるんですか、と。ですから、一番最初にうちの会社はこれをやるんだというヴィジョンを抱いて、ものを決めて、それに従って集中投資をするのが今のものの作り方です。分散投資はこれからの時代は絶対に成立しません。

日本人は個人はすごい人がいるが、団体力が無い。イタリアは民主主義の伝統があるので団体力がある。団体力を強めるには議論ができないといけない。

しかし、日本人は上下関係を気にするので議論になりにくい。上下関係だと、上の人が発言すると命令になってしまい、反論できない。イタリアは民主主義なので、上下関係がない。

対策としては、上下関係を維持したまま議論する方法を探すか、上下関係を解消して議論するかの、どちらかになるでしょう。議論のルール作りをしておけば、感情的になることを避けることができそうです。ただし、組織によると思う。

 

松浦彰夫 拝

徳とは何か。仁とは何か。善悪とは何か?

『論語』最高の徳である「仁」とは何か

 『論語』のなかで孔子は、「仁」を最高の道徳として示していました(あえていえば、その上の「聖」という徳目も記されているのですが、これは最高レベルの人間でも難しいと孔子も述べているので、ここでは除外)。

(中略)

まず、「孔子はそもそも何を目指していたのか」を時代の文脈からの視点で考えますと、春秋時代末期の内乱と下剋上が進むご時世のなかで、「社会に秩序を与え、安定した体制を取り戻したい」と願い、熱心に活動していました。これは『論語』を読めば明らかです。

 ではどうすれば、この内乱や下剋上を収められるのか。孔子はここで、おそらく混乱の主因に、

「人々の愛を及ぼす範囲が狭まっていること」

 を見た、と想定することができます。

 たとえば現代の会社や組織などでもそうですが、内部分裂や、下剋上が頻発して争いごとに明け暮れている状況を目にした場合、われわれは、

「荒れた組織だな」
「敵意や憎悪ばかりだな」
「愛や思いやりなんて欠片もないなあ」

 と考えるのが一般的ではないでしょうか。

 しかし、見方をちょっと変えてやると、これは偏った考え方でしかないことがわかります。たとえば、君主に下剋上を企てる家臣を考えてみましょう。彼には自分の支配下にある身内に対しては溢れんばかりの愛があります。

 しかし一方で、君主や国全体には残念ながらその「愛」が及ばなくなっています。このため叛乱を起こしてしまうわけです。「愛」は無くなったのではなく、その射程が狭まっただけ。しかしその結果、お互いが「愛」から外れたものを「憎悪」し始め、攻撃し合うという図式が生まれたのです。

 「愛しさ余って憎さ百倍」という言葉もありますが、愛ってその及ぶ対象の広さによって、素晴らしい徳目にも、ハタ迷惑な存在にもなってしまう二重性を持っているんですね。

 では内乱や下剋上を抑え、秩序や平和を取り戻すには、どんな処方箋を記せばよいのか。

 単純に考えれば、愛する領域の縮小が問題であるなら、逆に拡大するようベクトルを切り替えてやればよいはずです。つまり、

 「愛する対象を広げていくこと」

 これが「仁」の意味となるわけです。

(中略)

ただし、ここから孔子の教えのユニークな点が顔をのぞかせます。愛を広げるのが重要といっても、孔子は、

 「一挙に愛する対象を広げて、博愛を心がけなさい」

 とは、まったく考えませんでした。『論語』にはこんな言葉があります。

・「“悪意にも善意をもって報いよ”と言われますが、いかがでしょうか」
 ある人がそうたずねたところ、孔子は答えた。

 「それなら、善意には何をもって報いるのかね。悪意には理性をもって報い、善意には善意をもって報いるがよい」(或ひと曰く、「徳を以って怨みに報いば何如」。子曰く、「何を以ってか徳に報いん。直を以って怨みに報い、徳を以って徳に報いん」) 憲問篇

 確かにわれわれ凡人が「広く愛せよ」と言われたところで、敵対する相手まではそうそう愛で包みこめないわけです。この人の素直な心情を、まず認めようとするのが孔子の孔子たる所以でした。

 では、どうやって愛を広げていくのか。孔子は、今感じている身近な対象への愛——端的には親や兄弟への愛——を起点にして、その範囲を少しずつ周囲に押し広げていけばよいと考えたのです。

日本の民主主義には「仁」の精神がなくなってしまった?:日経ビジネスオンライン

人が幸せになることが善で、不幸になることが悪だと定義します。

また、善い事をするのが善人、悪い事をするのが悪人だとすると、人を幸せにするのが善人、人を不幸にするのが悪人となります。

1人が幸せになることは1の善、10人の幸せなら10の善、1000人の幸せになら1000の善、1人が不幸になることは1の悪、10人の不幸なら10の悪、1000人の不幸なら1000の悪となります。

  少人数 大人数
善悪の大きさ
幸せ 小善 大善
不幸 小悪 大悪

1人を幸せにするために、1人を不幸にするのなら、差し引き0です。ただし、その1人の幸せを維持するために、別の1人をまた不幸にしたら、幸せな人が1人で、不幸な人が2人なので、マイナス1の不幸になります。

社会全体で考えると、愛する範囲が狭い人は10人を幸せにするために1000人を不幸にしてしまうことがあるので、愛する範囲が狭い人は社会では悪人です。

ただし、1人を幸せにするために1人も不幸にしないのなら、プラス1の幸せなので善い事です。自分1人が幸せになるために、誰にも迷惑をかけないなら、問題ありません。人に迷惑をかけない範囲で、自分の幸せを追求するのは社会的にも善い事なので、どんどんやりましょう。

もっと善いのは、自分の幸せが他人の幸せでもある場合で、1つの事で2人が幸せになりますので、2倍善いことになります。WIN-WINの関係が善いというのはそういうことです。自分が幸せな事で10人、1000人が幸せになれることなら、更に善いです。他人を幸せにする事は、多少おせっかいでも構わないので、どんどんやりましょう。

悪人に話を戻します。10人を幸せにするために1000人を不幸にする人ががいて、その悪事を止めさせる事は、それで10人の幸せが無くなったとしても、1000人の不幸が無くなり、差し引き990人の不幸が無くなりますので、社会的に善い事です。その悪人にとっても、悪事は心理的に苦しいことですから、それ以上悪事を重ねることが無くなって、心理的には救われます。

 

原子力発電所を例として考えます。

原発で働く人は、放射能を浴びますので長く生きられません。10年も働いたら白血病になってしまいます。この不幸な人を、仮に10,000人とします。

原発で儲ける人もいます。現場に行かないで、安全に利益だけ受け取る人です。この幸せな人を、仮に100人とします。

100人を幸せにするために、10,000人を不幸にしていますので、止めればいい、とは単純にはいきません。電力を使う人がいます。この幸せな人を1,000,000人とします。

では善いことかといえば、そうでもないです。放射性廃棄物が出て、ものによっては何万年も何億年も残ります。未来の人を困らせ続けますので、不幸な人の数は、ほぼ無限大∞人です。

儲ける人が100人、亡くなる人が10,000人、使う人が1,000,000人、困る人が無限大∞人という、4層構造です。

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全体では困る人がほとんどですので、止めるのが善い事になります。

止めるにはどうしたら善いかといえば、もっと善い発電方法に置き換えれば、使う人も困りませんので、ただ止めるより善い方法です。働いている人もそちらで働けば死にません。

水素エネルギーウェブに置き換えるのは、そういう意味で善い事です。質の悪い物を質の良い物に置き換えるのは、善い事だということです。

儲けている人は儲けられなくなって困りますが、人を殺して儲けてきた悪人たちです。孔子の言うとおり、そんな人まで善意を向ける必要は無く、理性をもって対応すればよいです。殺人罪で逮捕したいくらいですが、すんなり止めるなら、そこまでしなくてもいいとは思っています。

 

松浦彰夫 拝

人を集める方法とは

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こんなタイトルでコラムを書くわけですが、私は人を集めるのが苦手です。

普通にしていれば、人に好かれるより嫌われる事が多い人間だと自覚しています。

幼稚園や小学校低学年の頃、人付き合いに関して何も考えていない頃は、あまり友人もできず孤立していました。

人付き合いに気を使うようになって友人もできましたが、「生まれつきの性格では人に嫌われる」というコンプレックスがずっと残っています。

そして、世の中には、「なにもしなくても人が集まってくるタイプの人がいる」らしいと、伝え聞いたので、そういう人になりたいと思うようになりました。ただし、どうやったらそういう人になれるかは、さっぱり分かりませんでした。

 

高校くらいから経済学的な考え方を知ったので、利益を生み出す人になれば、人から歓迎される人になるじゃないかと、考えました。生み出す利益より損失が少なければ、利益の方が多い。これは労働者や商売人としては良いですが、人集めには向かない方法でした。利益で釣る方法では、利益が無くなると続きません。大金が必要ですので、普通の人には無理ですが、大富豪ならできなくも無いです。

大学は経済学科まで行ったのですが、金だけでは人は幸せにならないのが分かりました。

人間を商品扱いしているのが良くないのだと、今では分かります。おそらく、テレビで美形タレントを並べて、だれが一番美人だ、だれがイケメンだと、見た目だけで人を選ぶという、そういう風潮が良くない。人は野菜じゃないんだから。野菜と同じで陳列されていると考えているから、金を出して手に入れればいいと考える。金を出す奴が偉いという、拝金主義に毒されています。私を含めて、最近の日本人が反省するべき所です。

 

利益以外で人を集める、もう一つの方法は、「こういう人になりたい」と思われることです。そうすれば「自分もそうなりたい」と思う人が集まってきます。下記を読んでみてください。

Q. 好きな人に告白する言葉を教えて (小6・女の子)
A. 永先生:言葉は一番大切です。でも、好きな人に「あ、この子好きだな」とか「いい人だな」と思われるには、「おなべをいっしょに食べて同じものをおいしいと思う」、「夕やけを見て、両方が美しいなと思う」というような同じ感動を同じ時点で受け止めるのが一番効果があります。
例えば、「いただきます」とか元気な声で言っていると、それだけで「あの子いただきますって言ってるな。きっといい子なんだろうな」と思うじゃないですか。「あなたがすき」ですとか、「キミを僕のものにしたい」とか、「世界のどこかで待ってる」とか、そういうのはあんまり効果がありません。
「きれいだな、おいしいな、うれしいな」ということが同時に感じあえる環境が一番大事。だから、「好きです、嫌いです」という言葉ではなく、いい言葉を使っている子は好きになれる。「あの人ならこの言葉は好きだろうな」と思った言葉を何気なく使っているときの方がドキンとします。「あなたが好きです」というのは最悪な言葉です。
だから、いっしょの環境にいるときに同じ感動をする場面に出来るだけいっしょにいる。スポーツの応援でもいいです。そうすると、使いあっている同じ言葉にドキンとすることがあって、それが愛なんです。
自分でいうのもおかしいけど、ひとりでご飯を食べてておいしいことないです。ひとりで野菜を食べているときは本当にさみしい。やっぱり家族、好きな人といっしょのほうがいい。二人っきり、まずはふたりになること。きれいな言葉を使いあうこと、きれいなことに感動すること、ふたりで声をそろえて感動してください。

放送タレント 永六輔 先生

全国こども電話相談室[その他]

考えてみれば、「あなたが好きです」という言葉は、「私が選ぶ立場。選んでやったから喜びなさい」という、上から目線で、失礼な言葉です。野菜と同じ扱いです。「私は別に好きじゃありません。さようなら」と返されても仕方ないでしょう。

それよりも、いっしょに居て同じ夕焼けを見て感動したり、美味しいものを食べたり、きれいな立ち居振る舞いをして、もっと一緒に居たいと思われる方が良い。

それには、やるべき時に、やるべき事をして、人から見て恥ずかしくない行動をすればいい。そうすれば、びくびくせずに、自信をもって堂々と行動することができます。

やるべき時に、やるべき事をしていないというのでしたら、それをするだけです。人から認められるには、実績を積み上げるしかありません。実績は誰にも否定できません。実績を積むために、いきなり大きなことをする必要はないです。行動には何でも下積みというものがあって、リスクの少ない、簡単なことから始めれば、だんだんと大きな効果のあることを出来るようになります。

 

松浦彰夫 拝

中島聡さんのスタートダッシュ型仕事術に、考えさせられました。

最初にスタートダッシュすれば、初期に全体の見通しが立つから、失敗作ができても捨てればいいので、品質の良いものを作り出せる。

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【図の解説】この図の一番上のグラフが私が推奨する開発プロセス。最初に思いついたアーキテクチャで8割型動くところまで一気に持って行き、そこで「これで行けるかどうか」の判断をする。「このままでは行けない」と感じたら、あっさりと最初に戻り、次ぎのアーキテクチャで作る。これを繰り返し、納得できるアーキテクチャに到達したところで、後は流す(コードをきれいにする、UIの細部を詰める、徹底的にテストをする、コメントを入れる、など)。

 二番目のグラフが、同じプロセスをラストスパート型でした場合。スタートダッシュ型と比べてやたらに時間がかかるのが分かると思う。

 しかし、実際にはラストスパート型でプロジェクトを進めた場合に陥るのが三番目のグラフのパターン。それなりに時間もかけてしまった、詳細な仕様書も作ってしまった、そのアーキテクチャで行くことの承認も取ってしまった、などの理由で、一度採用したアーキテクチャ・書いてしまったコードを捨てられなくなるのだ。なんとかアーキテクチャの大変更だけは避けようといろいろと工夫をするのだが、バグがバグを呼び、ドツボ(デス・マーチ)にハマるのがこのパターン。

Life is beautiful: スタートダッシュ型仕事術:実践編

確かにそのとおりだと思います。夏休みの宿題を早く終わらせれば、遊んで暮らせる。

でも、私は夏休みの宿題を最後まで残してしまう子供でした。当時も早く宿題を終わらせた方が良いのは分かっていました。でも、分かっちゃいるけどやめられない。今でも仕事をスタートするのが遅くて、ラストスパート型の仕事ばかりやっているように思います。

そこで過去の反省点をふまえ、どうやったらスタートダッシュできるようになるか、自分なりに考えてみました。スタートダッシュ型の人は100人に1人しかいなくて、99人はラストスパート型だそうなので、スタートダッシュ型になる方法論が分かったら100人中99人の人の役に立つはずです。

自分の経験を思い出してみると、なぜ最初に仕事が手に付かないのか。まず「何をすればよいのか分からない」というのがあります。何を目標にするのか(What)、どんな方法で実現すればいいのか(How)、何に価値を見いだすか(Why)の3つが明確になっていなかった。

出題者が意図したものと違うものを作ってしまったり、完成させることができなくなってしまったり、「こんな宿題をしても、どうせ役に立たないからしたくない」などと考えてしまったりするわけです。

つまり、What、How、Whyの3つが不確実でエントロピーが高い。エントロピーを下げると動きやすくなって、やる気も出るわけです。

 『誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義: 松岡正剛』を読みました。概要と感想を書きます。千夜千冊の方です。

 

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本書の概要は、あとがきにありました。

近現代史の「まちがい」がどこからおこったのか、そこをさぐっていくという語りかたに徹してみました。そのため本書では、多くの読者にはやや意外かもしれないであろう「イギリスのまちがい」ということをあえて示してみました。イギリスが犯罪者だというのではありません。イギリスは議会も株式会社もジャーナリズムも小説も産業技術も作ったんです。近代社会がその恩恵に浴しているモデルの多くがイギリスの発明です。

ところが、これらを世界に撒き散らさないと、イギリスは覇権を握れなくなった。そのため植民地を経営し、奴隷を発明し、三角貿易を定着させました。直播きです。直営です。それを百歩譲って、当時の世界経済の繁栄としてやむをえなかったとしましょうか。しかし、そのうちこのモデルは世界中が擬似的に共有するものとなってしまっていたんです。とくにそのイギリスからの移民によって自立したアメリカが、この覇権を継承すると、世界中が同一のルールとロールとツールを使うようになっていきました。

これは「まちがい」です。こんな歴史はかつてあったタメシがありません。だから、ここはよく考えなおすべきところです。ヨーロッパ諸国は、私が知るかぎりはこの「まちがい」を20世紀になってから何度かにわたって反省し、検討してきたように思います。その成果のひとつがフッサールやアドルノの現代思想や、カフカやベケットの文学となり、EUの試みやアート・ムーブメントになってきた。それを一言で言えば「自由と国家と資本主義」の新たな組み替えということでしょう。本書は、こうした「生みの苦しみ」のあとを辿ったものとも言えるかもしれません。

残念ながら、日本はいま「まちがい」を巨視的にとらえていないようです。互いの「なすりあい」に終始していて、疲れがでています。困ったことですね。

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義 おわりに 苗代の知恵 P466

イギリスが作った近代世界システムの間違いを考え直そうということのようです。

 

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そして、近代とは「代理の社会」だそうです。

 私は、そもそも近代社会というのは「代理の社会」だというふうに思っています。

自分で政治もしないし、料理もしないし、洗濯もしない。政治は代議士にしてもらい、洗濯はクリーニング屋に頼み、旅行は旅行代理店に組んでもらう。法律のことは弁護士にまかせ、食事もレストランのシェフのものを食べ、教育は先生方に面倒を見てもらう。企業も財政面を銀行に見てもらい、その宣伝は広告代理店に代理させていく。

これが近代社会の実態です。なにもかもが他人のつくる機関にまかせていく。そして、大衆はそれに文句をつければいいということになっていく。こういう「代理の社会」をつくったことが、ネーション・ステートのもうひとつの特色だったわけです。

すべての代理がよくないということではありません。「まちがい」とも言いません。政治や法律や教育や医療は、代議士や弁護士や教師や医師にまかせてもいいでしょう。けれども、そこには限界もあるし、失敗もあるし、過剰や不足もあるのだから、目を光らせるだけではなく、ときには自分で引き取る覚悟を持っていたほうがいい。

その代理性が、20世紀後半ではついに米ソによる「代理戦争」にまで究極化していったわけでした。2つの大戦の戦禍や原因など、国家においてはなにひとつ反省されていなかったんですね。

こんな「代理の社会」がこのまま、21世紀の政治や経済の理想モデルになるかといえば、とうていムリでしょう。私はそれをせめて「編集の社会」にしていくべきだと思っています。「代理を編集で取り戻せ」ということですね。

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義 第10講・・・資本と大衆の時代 冷戦時代のポリティクスーー代理社会の代理戦争 P392

近代は「代理の社会」であり、エスカレートして「代理戦争」にまでなってしまった。

 

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国営昭和記念公園 こもれびの里

筆者は、近代の間違いに対して「苗代」という方法で対処しようと提案しています。苗代は梅雨を挟んで稲を丈夫に育てるよう工夫した方法で、「依代(よりしろ)」「憑坐(よりまし)」「物実(ものざね)」という考え方のルーツのひとつになっていたそうです。これらは、そこに何かがやってきたり、着いたり、宿ったり、育ったりするとても小さな「座」「棒」「柵」のようなものだそうです。日本の稲作はダイレクトに育てず、苗代という仮の場所に種をまいて、2段階で育てる。

他国から来た異質なものも、いきなり全面的に受け入れず、まず小さく育ててみて吟味する。その段階で日本に合うものに「編集」して取り込むという方法を、筆者は提案しています。

 

一理ありますが、「苗代」は受け入れる側の方法論だけなので、外に広げていく側の方法論は別に構築する必要があると感じました。

「苗代」は農業のランドパワーの方法です。日本は島国なので、海を上手く使うというシーパワーの方法があります。日本は外交下手といいますが、土地をもってそこに引きこもるという発想で、内向きになってしまっています。海は物資の輸送に便利です。徳川時代に鎖国したおかげで、山田長政のように東南アジアに進出した日本人が途絶えてしまいました。それが続いていたら、日本人には国際感覚があふれていたと思います。

 

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本書では方向性が違いますが、「海の民」についての記述がありました。「水軍」などでしょうか。

世界にはいろいろ共同体のモデルがありえます。けれどもアジア的な共同体というと、そんなに多くのモデルにはなりません。①生態適応型の共同体、②ネットワーク型の共同体、③大文明型の共同体、おおざっぱにそのくらいでしょう。

①は、たとえば東南アジアの山地やジャワや日本の農村部にかつてはよく見られました。いまではこれを「エコ」などと言いますね。②は、「海の民」や「草の民」がつくってきた共同体です。ネットワーク的に動いていく共同体モデルです。③は、中国の社稷(しょしょく)共同体やインドのカースト制がつくってきた。しかし、こうしたアジアの共同体も、いまでは各地でいちじるしい変更や修正をうけてしまっています。

ということは、これらのどの共同体のモデルがいいかということではなく、いま残っている母型や単位をさまざまに共存させていくことが必要だということです。そういう「編集方法」を考えなければならないでしょう。

誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義 第11講・・・日本の苗代をとりもどしたい 日本人の「ものの見方」 P432

「海の民」はネットワーク型の共同体ということです。コミュニティに閉じこもらずに外と積極的に関わっていくという意味だと思います。日本の活路は、海路にこそあるのでは無いかと思う訳です。

 

松浦彰夫 拝

 男はテストステロンというホルモンが多いとモテるようです。

YouTube - Testosterone Factor

ちなみに、男性ホルモン(テストステロン)が枯渇すると肥えるといいうのは
一種の老化と同じですよ。
男性の中年太りは、老化が原因で、テストステロンの低下がかなり影響しています。

(略)

嘘みたいな話ですが、テストステロンがどれくらい凄いかというとね。

まったくモテないラットのオスに、テストステロンを注射すると、
途端にメスが群がってくる。
そんな凄まじい威力があるホルモンなのです。

(略)

女性はこのにめっぽう弱く、年齢に関係なくこのホルモンの多い男性に憧れを感じます。
つまり、このホルモンを多く分泌させれば男性はモテるようになります。
でもなぜテストステロンを発散する男に、女は引き寄せられるのでしょうか?
それは、案外簡単な原理で、
健康で生殖力の高い男ほど、この究極のホルモンを多く分泌しているということで、
つまり、女性の遺伝子が好むホルモンなのです。

(略)

ということで、
男は絶対にテストステロンを過剰に発揮させるようにすべきなんです。

なぜなら、単に「モテたい」だけでなく、
男性にとってテストステロンを分泌させることは至上の快感であり、
テストステロンには気分を爽快にさせる精神作用があることがわかっているからです。
そして、テストステロンは性欲を高め、同時に他のホルモンを上昇させるのです。
つまりテストステロンのレベルが高いと心身ともに充実できるんですよ。
うつ病対策にも有効ですし。

では、どのようにすればテストステロンのレベルが上がるかと、いいますとね。
これがまた面白いんですけど。

テストステロンは精神が安定している状態では多く分泌されません。
つまり精神安定はテストステロンを低下させるのと同時に性の快感までも奪います。

イリノイ州ノックス大学の心理学者、ティム・カッサーの研究では、
大学の学生らに15分間銃を扱わせたところ唾液から普段の100倍近いテストステロン値を記録したという。
この事から危険物、あるいは危険な行為が更なる分泌を促すと言えるのです。

したがって、テストステロンを高レベル維持をするには、
男は、常に荒野を目指すライオンでなければならないということなのです。

激モテホルモン BlueBloomBlog/ウェブリブログ

 ヒャッホー! いいこと聞いた。俺もテストステロンを出しまくってモテモテだぜ。

 

・・・まてよ。

 日本で成果主義が上手くいかない、つまり日本人が成果を上げにくいのは、個人に責任と権限が無いからのようです。責任と権限とは、人事権ということです。

 

talent_pool_system.png

 

タレント・プール・システムなら、プロジェクトごとにリーダーが最もふさわしい人材を集めます。つまり、現場の人間が人事権を持っています。これなら成果が上がるでしょう。その成果は1月10日のComicCity大阪と新年会で明らかになるでしょう。

この記事を読んで、「ヴォータンの独白」で書かれていた成果主義の話を思い出した。

「成果主義の10年(負の成果主義の悲惨な結末)」(2006年12月)
http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/10_aafa.html
「負の成果主義の悲惨な結末(再論)」(2008年5月)
http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_dc34.html
負の成果主義の悲惨な結末(補論)(2009年2月)
http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-9e2d.html

どれも面白い内容で、文体も軽快でスイスイ読めるので、ぜひ読んでみてほしい。要点だけまとめると、

・日本が成果主義のお手本とした外資では、「客観的」な成果主義などやっていない
・外資では、「客観的」な情報は参考にするだけで、むしろ現場責任者が「主観的」に成果を評価している
・外資では、現場をわかっている現場責任者が、採用・解雇の人事権も持っている

・日本では、現場責任者が人事権を持っておらず、いっぽう人事担当は現場をわかっていない

といったところになると思う。もちろん、ここでの「外資」や「日本」はすべての会社がそうだというわけではなく、ヴォータンさんから見た一般的な傾向の話だと思うが、じゅうぶんに妥当な内容であり、正しい指摘だと思う。

ヴォータンさんの指摘をふまえての私の意見としては、日本で「成果主義」がうまくいかないのは、結局のところ

「現場責任者に、採用・解雇の人事権も含めた権限がない」


というところに尽きるように思う。本当に「成果主義」をやるのであれば、人事担当ではなく、現場での働きぶりをわかっている現場責任者がやるしかないし、減給や解雇まで含めた人事権まで現場責任者が持っていなければ、本当の「成果主義」にならない。

日本では、現場責任者に権限がないどころか、会社そのものが、社員に対する減給や解雇がなかなかできないようになっている。減給や解雇ができない上に、現場をわかっていない人事が「客観的」な成果主義をやろうとする。何らかの「客観的に見える数字」をひねりだし、それを根拠にしたりする。これではうまくいくはずがない。

ヴォータンさんも書いているが、現場責任者に人事権まで与え、現場責任者が「主観的」な評価、「主観的」な採用・解雇をおこなったとしても、別に問題はない。「負の成果主義の悲惨な結末(再論)」の中で、友人との会話として、こう書かれている。

<「でもさあ、お前が一人で主観的に評価したら危なくないか?」
ヴォ「うん、危ない。ただね、俺自身は部門の責任者として『成果』と言う客観的なもので、まず評価されるし、俺自身に対するアナログな評価は直接の上司やら世界中にいる同僚やらから来るんだよ」
ヴォ「だから、情実評価やらアホな評価をして部下のモチベーションを落としたら、まず自分の『成果』が落ちるからアウト!且つ、自分に対する上やまわりの評価も悪くなるよな」>

つまり、それをどうやるかということがその現場責任者の「仕事」だから、もしデタラメにやっていれば、その現場責任者の評価が下がり、クビになったりするだけの話なのだ。

上司もまた、その現場責任者を「主観的」に評価する。だから、現場責任者には「ちゃんとやろう」というインセンティブがある。現場責任者が、その上司の「主観」をどうしても信頼できないと思ったら、別の会社に行くだろう。

日本では現場責任者に人事権がないだけでなく、いわば「会社自体に解雇の権限がない」。これでは、根本的に「成果主義」と矛盾せざるをえない。「権限」と「責任」はつねにセットになるものだが、クビというかたちで「責任」を取ってもらうことができないから、「権限」も与えられないのだ。

「責任がなく、権限もない」個人というのは、会社の現場責任者だけでなく、日本のあらゆるところで見られるパターンであり、いわば「日本の縮図」だ。日本では、個人にも、会社にも、自治体にも権限がなく、権限はすべて政府に集中している。権限がないかわりに、みんな「保護」されて、「護送船団方式」で団体旅行のように集団移動するので、誰も責任もとらなくていいのだ。

本当の「成果主義」とは、「成果を出したものが報われる」という評価システムのはずだ。これをやるためには、現場責任者はもちろん、末端の社員レベルにまで、「権限」と「責任」を委譲するということが不可欠だろう。「権限」を与え、自由にふるまって成果を出してもらう。しかし、そこには「責任」もともなう。

つまり、個人に「責任がなく、権限もない」という中央集権的・全体主義的な日本方式では、そもそも「成果主義」はできるはずがないのだ。成果や実力ではなく、「身分」で決まっているのがいまの日本だ。だから、前向きに働こうというインセンティブが生まれないし、「希望」もない。

なぜ日本の成果主義は失敗するのか 「責任がなく、権限もない」個人という日本の縮図 - Zopeジャンキー日記

 

松浦彰夫 拝

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