徳とは何か。仁とは何か。善悪とは何か?
『論語』最高の徳である「仁」とは何か
『論語』のなかで孔子は、「仁」を最高の道徳として示していました(あえていえば、その上の「聖」という徳目も記されているのですが、これは最高レベルの人間でも難しいと孔子も述べているので、ここでは除外)。
(中略)
まず、「孔子はそもそも何を目指していたのか」を時代の文脈からの視点で考えますと、春秋時代末期の内乱と下剋上が進むご時世のなかで、「社会に秩序を与え、安定した体制を取り戻したい」と願い、熱心に活動していました。これは『論語』を読めば明らかです。
ではどうすれば、この内乱や下剋上を収められるのか。孔子はここで、おそらく混乱の主因に、
「人々の愛を及ぼす範囲が狭まっていること」
を見た、と想定することができます。
たとえば現代の会社や組織などでもそうですが、内部分裂や、下剋上が頻発して争いごとに明け暮れている状況を目にした場合、われわれは、
「荒れた組織だな」
「敵意や憎悪ばかりだな」
「愛や思いやりなんて欠片もないなあ」
と考えるのが一般的ではないでしょうか。
しかし、見方をちょっと変えてやると、これは偏った考え方でしかないことがわかります。たとえば、君主に下剋上を企てる家臣を考えてみましょう。彼には自分の支配下にある身内に対しては溢れんばかりの愛があります。
しかし一方で、君主や国全体には残念ながらその「愛」が及ばなくなっています。このため叛乱を起こしてしまうわけです。「愛」は無くなったのではなく、その射程が狭まっただけ。しかしその結果、お互いが「愛」から外れたものを「憎悪」し始め、攻撃し合うという図式が生まれたのです。
「愛しさ余って憎さ百倍」という言葉もありますが、愛ってその及ぶ対象の広さによって、素晴らしい徳目にも、ハタ迷惑な存在にもなってしまう二重性を持っているんですね。
では内乱や下剋上を抑え、秩序や平和を取り戻すには、どんな処方箋を記せばよいのか。
単純に考えれば、愛する領域の縮小が問題であるなら、逆に拡大するようベクトルを切り替えてやればよいはずです。つまり、
「愛する対象を広げていくこと」
これが「仁」の意味となるわけです。
(中略)
ただし、ここから孔子の教えのユニークな点が顔をのぞかせます。愛を広げるのが重要といっても、孔子は、
「一挙に愛する対象を広げて、博愛を心がけなさい」
とは、まったく考えませんでした。『論語』にはこんな言葉があります。
・「“悪意にも善意をもって報いよ”と言われますが、いかがでしょうか」
ある人がそうたずねたところ、孔子は答えた。
「それなら、善意には何をもって報いるのかね。悪意には理性をもって報い、善意には善意をもって報いるがよい」(或ひと曰く、「徳を以って怨みに報いば何如」。子曰く、「何を以ってか徳に報いん。直を以って怨みに報い、徳を以って徳に報いん」) 憲問篇
確かにわれわれ凡人が「広く愛せよ」と言われたところで、敵対する相手まではそうそう愛で包みこめないわけです。この人の素直な心情を、まず認めようとするのが孔子の孔子たる所以でした。
では、どうやって愛を広げていくのか。孔子は、今感じている身近な対象への愛——端的には親や兄弟への愛——を起点にして、その範囲を少しずつ周囲に押し広げていけばよいと考えたのです。
日本の民主主義には「仁」の精神がなくなってしまった?:日経ビジネスオンライン
人が幸せになることが善で、不幸になることが悪だと定義します。
また、善い事をするのが善人、悪い事をするのが悪人だとすると、人を幸せにするのが善人、人を不幸にするのが悪人となります。
1人が幸せになることは1の善、10人の幸せなら10の善、1000人の幸せになら1000の善、1人が不幸になることは1の悪、10人の不幸なら10の悪、1000人の不幸なら1000の悪となります。
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少人数 |
大人数 |
善悪の大きさ
幸せ |
小善 |
大善 |
不幸 |
小悪 |
大悪 |
1人を幸せにするために、1人を不幸にするのなら、差し引き0です。ただし、その1人の幸せを維持するために、別の1人をまた不幸にしたら、幸せな人が1人で、不幸な人が2人なので、マイナス1の不幸になります。
社会全体で考えると、愛する範囲が狭い人は10人を幸せにするために1000人を不幸にしてしまうことがあるので、愛する範囲が狭い人は社会では悪人です。
ただし、1人を幸せにするために1人も不幸にしないのなら、プラス1の幸せなので善い事です。自分1人が幸せになるために、誰にも迷惑をかけないなら、問題ありません。人に迷惑をかけない範囲で、自分の幸せを追求するのは社会的にも善い事なので、どんどんやりましょう。
もっと善いのは、自分の幸せが他人の幸せでもある場合で、1つの事で2人が幸せになりますので、2倍善いことになります。WIN-WINの関係が善いというのはそういうことです。自分が幸せな事で10人、1000人が幸せになれることなら、更に善いです。他人を幸せにする事は、多少おせっかいでも構わないので、どんどんやりましょう。
悪人に話を戻します。10人を幸せにするために1000人を不幸にする人ががいて、その悪事を止めさせる事は、それで10人の幸せが無くなったとしても、1000人の不幸が無くなり、差し引き990人の不幸が無くなりますので、社会的に善い事です。その悪人にとっても、悪事は心理的に苦しいことですから、それ以上悪事を重ねることが無くなって、心理的には救われます。
原子力発電所を例として考えます。
原発で働く人は、放射能を浴びますので長く生きられません。10年も働いたら白血病になってしまいます。この不幸な人を、仮に10,000人とします。
原発で儲ける人もいます。現場に行かないで、安全に利益だけ受け取る人です。この幸せな人を、仮に100人とします。
100人を幸せにするために、10,000人を不幸にしていますので、止めればいい、とは単純にはいきません。電力を使う人がいます。この幸せな人を1,000,000人とします。
では善いことかといえば、そうでもないです。放射性廃棄物が出て、ものによっては何万年も何億年も残ります。未来の人を困らせ続けますので、不幸な人の数は、ほぼ無限大∞人です。
儲ける人が100人、亡くなる人が10,000人、使う人が1,000,000人、困る人が無限大∞人という、4層構造です。

全体では困る人がほとんどですので、止めるのが善い事になります。
止めるにはどうしたら善いかといえば、もっと善い発電方法に置き換えれば、使う人も困りませんので、ただ止めるより善い方法です。働いている人もそちらで働けば死にません。
水素エネルギーウェブに置き換えるのは、そういう意味で善い事です。質の悪い物を質の良い物に置き換えるのは、善い事だということです。
儲けている人は儲けられなくなって困りますが、人を殺して儲けてきた悪人たちです。孔子の言うとおり、そんな人まで善意を向ける必要は無く、理性をもって対応すればよいです。殺人罪で逮捕したいくらいですが、すんなり止めるなら、そこまでしなくてもいいとは思っています。
松浦彰夫 拝