流水成道blog: 歴史アーカイブ

歴史のブログ記事 1 / 1

アメリカの小学2年生は、プレゼンテーションができるよう、教育されているようです。

アイコンタクトをする。序論と結論を伝える。メモをできるだけ見ないて暗記する。トピックについて説明する。日本人で同じ事ができる人がどれくらいいるか疑問です。質問に答える。ビジュアルなど発表方法を工夫する。

こういう格差を知ると、日本の教育は失敗していると感じます。

7歳でいきなり発表するのではなく、3歳くらいから週1回くらい、好きなおもちゃなどを大勢の前で発表しているそうです。また全て学校で指導するのではなく、家庭で親が指導する必要もあるようです。

日本でもお子さんがおられる方は、お子さんが何を考えているか話をさせてみると良いかもしれません。

私も3点以上取れるかどうか。プレゼンが上手くできるようになりたいです。

子供のアメリカ現地校2年生がはじまり、クラス担任より、毎週ひとつのテーマに沿ってプレゼンテーション(発表)の授業があると連絡が来ました。

テーマは、最近の時事問題、好きな詩、など様々ですが、年間を通して、毎週課題テーマに沿って、一人あたり2~3分の持ち時間でクラス全員の前でプレゼンテーションをします。

その評価基準が上の写真、見て驚きました。

点数は1~4点評価です。

1点:
* 準備ができていない

2点:
* 全てメモを見ながらの発表
* 聴いている人へのアイコンタクトなし
* 声が小さい
* 先生の手助けが必要
* 序論と結論がない

3点:
* 大きな声で発表ができた
* 聴いてる人へのアイコンタクトができた
* メモを見るのは時々
* 序論と結論がわかりやすく伝えられた

4点:
* 3点のチェック項目全部できた
* トピックについてしっかりした説明ができ、質問にも的確に答えられた
* 発表の方法に工夫が見られた(ビジュアルなど)
* 発表内容を暗記していた

要するに、3点以上取れてやっと合格、ということです。

小学2年生、アメリカは学校が早く始まるので、実質、日本の小学1年生へ要求される内容としては、驚愕!ではないでしょうか。

グローバル時代の次世代教育: アメリカの小学校、驚きのプレゼンテーション指導

Stuttering Presentation - YouTube

 

松浦彰夫 拝

近代と中世の違い

近代は科学の時代で、その前の中世は宗教の時代でした。

言い方を変えると、宗教が人間を支配していたのが中世で、科学が宗教を否定したのが近代です。この2つの時代の境界で、善悪に関する考え方が変わったのだと思います。

中世では、善人と悪人ははっきり分けられていました。

教会が善人の定義を決めて、教会の教えに少しでも合わない人は悪人として、殺しても構わないとされていました。異端審問、魔女裁判というものです。

悪人が生きられない世界ですから、自分の欠点を認めるわけにはいきません。しかし欠点の無い人間などいません。欠点を隠して生きるか、自分は欠点の無い人間だと信じて(=自分をだまして)生きていました。

自分は全て正しいと思って生きている人はキチガイだと、よく連山で書かれていますが、中世の人間の生き残りだと思います。近代の精神レベルまで成長できていないのです。

生まれながら自分は正しいと考えていれば、間違いを認めないですから、自分を変える事ができず、成長もありません。

一方、科学的考え方では、完全に正しい理論はありません。例えば、ニュートン力学にある誤差は、相対性理論で説明されます。ではニュートン力学が間違っているのかといえばそうでもなく、普通の運動法則を考えるには十分です。その時点で観測できる事象から理論を考えて、それが大体合っていれば十分です。つまり、小さな間違いを含んでいても大きく合っていれば問題ないと考えます。完璧じゃなくてもいいのです。

宗教が科学にとってかわったのは、その嘘をつかなければ生きていけない息苦しさに、多くの人がうんざりしたからだと思います。

 

中世と古代の違い

話は変わって、中世にまったく意味は無かったのかといえば、それも無いと思います。中世の前の古代は、弱肉強食の時代です。いつ戦争してもいいし、戦争に勝てば負けた人を殺しても、奴隷にしてもかまいませんでした。むしろ殺さないぶんだけ、奴隷にすることは人道的なことでした。

そんな古代で、宗教が何をしたかというと、同じ宗教同士では殺し合いをしてはいけないと決めました。宗教内限定ですが、殺し合いを悪としたことは、大きな変化です。

もっとも、他宗教の人は殺しても良いままでしたので、宗教間の戦争は活発化しました。イスラム教とキリスト教の戦いや、カトリックとプロテスタントの戦いなどです。

古代、中世、近代と、愛する対象を広げていったのは、意味のある行為だったと思います。何千年もかかりましたが。


近代の次の時代は?

近代もいつか役目を終えて、次の時代になります。人類の進化です。それは、近代の良さを引き継いだうえで、近代の欠点を克服した形になるはずです。

近代の欠点は、大量生産・大量消費で、資源を使いすぎることがあります。資源の節約と循環型システムが必要です。

時代の進歩は、愛情をかける範囲を広げて行く傾向があります。近代で人権思想が生まれて、人は誰もが尊厳を持つことになったことの枠を広げて、人類以外の自然にまで愛情を広げていくことが、近代の次の進歩なのかもしれません。

ただし、簡単にはいきません。近代に中世の人が生き残っているように、古代の人も残っています。生まれる人がいれば、亡くなる人もいますので、教育を受けられずに文明化に取り残された人が居るのです。その人が悪いからそうなるのではなく、そういう所で生まれたらそうなるはずです。

特に最近は気候変動が始まりました。食料や住居が無く、暮らしに困った人は、中世や古代に先祖返りして、略奪してでも生き残ろうと考えます。

文明を崩壊させてしまうか、新文明を築くか、分かれ道でしょう。

 

敵を味方に変える

孫子に用間という一節があります。いわゆるスパイの使い方です。スパイの中で最も重要なのが反間、つまり敵陣営にいる人物を味方に変えたスパイです。

そこで、スパイの種類には、①郷間があり、②内間があり、③反間があり、④死間があり、⑤生間があります。この五種類のスパイをうまく使いこなし、それをだれにも知られないというのが、運用のコツであり、君主の重視すべきことです。
 ①郷間とは、敵国の一般住民を優遇して、てなずけることによって、こちらのスパイとすることです。
 ②内間とは、敵国の重要人物を賄賂によって味方につけることで、こちらのスパイにすることです。
 ③反間とは、敵からスパイとしてやってきた人間を、それと気づかないふりをして厚遇し、うまくまるめこむことです。
 ④死間とは、ウソの情報をちまたに流し、それと同時にこちらのスパイにもそのウソの情報を本当と信じこませて、敵のスパイをたぶらかすことです。
 ⑤生間とは、使者として敵国に入り、敵の情報をいろいろと探り出し、その情報を持ち帰り、こちらに伝えることです。
 ですから、全軍のなかで、スパイよりも親密なポストはなく、スパイよりも高給なポストはなく、スパイよりも機密なポストはないのです。そして、すぐれた知恵がなければ、うまくスパイを使えませんし、人徳がなければ、よくスパイを動かせませんし、洞察力がなければ、スパイのもたらした情報の真偽を判断できません。スパイを使うということは、なんとも微妙なことであり、そんなスパイ活動はあらゆることに使用されます。

孫子・用間

孫子のセオリー通り、反対する陣営から来る人は、大歓迎、ウェルカムです。役に立つ情報には、十分な報酬が与えられるでしょう。

完全な善人がいないように、完全な悪人もいません。今後の行動しだいです。私たちの立場としては、敵が減り、味方が増える事は、新しい時代を築くためにも好都合なのです。

もちろん、他の種類の情報部員も歓迎します。


情報部員の訓練に参加しませんか?

3月27日、長野県の伊那サーキットで、秋月情報部の訓練を行ないます。

あわせて情報部員を募集しますので、よろしくお願いします。

詳しいことは別のコラムに書きます。

 

松浦彰夫 拝

へぐり時代祭り

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 私の故郷は、奈良県の平群町という町です。そして今日、4月25日に、平城遷都1300年祭の一環としてへぐり時代祭りを行うそうです。残念ながら私は別の用事があって行けないのですが、良い機会なので紹介させていただきます。

 

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へぐり時代祭りの開催について
平城遷都1300年となる来年(2010年)。
平群町では、平群の歴史を偲ばせる偉人たちが、町内を練り歩く「時代行列」や「催し」など、参加者が地域文化に触れながら楽しく過ごせるイベントとして「へぐり時代祭り 〜自然と歴史の玉手箱〜」を平成22年4月25日(日)くまがしステーション周辺にて開催します。
「へぐり時代祭り」の概要については現在企画を進めていますので、詳細につきましては、継続してお知らせしていきます。

時代行列の登場人物決定!
「へぐり時代祭り」のメインイベントである「時代行列」に登場する人物が決定しました。
平群町の歴史を彩った「偉人」たちというコンセプトにより、時代行列の登場人物の選定を実行委員会で協議した結果、
●倭 建命(やまとたけるのみこと)
●平群 木莵(へぐりのずく)
●役 行者(えんのぎょうじゃ)
●長屋王(ながやおう)
●吉備内親王(きびないしんのう)
●平群 廣足(へぐりのひろたり)
●命蓮上人(みょうれんしょうにん)
●松永 久秀 (まつながひさひで)
●嶋 左近(しまさこん)
以上9名の人物を選びました。いずれも平群の一時代を象徴する人物たちです。

「平城遷都1300年祭 へぐり時代祭り」 これまでの歩み

ゆるキャラは、せんとくん、左近くん、長屋くん、しぎとらくん、たつたひめ、 が参加するようです。人材が豊富で紹介しきれないので、また機会があれば紹介します。

歴史

古代の大和国平群郡平群郷の地である。古代豪族・平群氏の本拠地であり、平群神社、平群坐紀氏神社、平群石床神社などの延喜式内社が鎮座するのをはじめ、古墳64基が散在する。

信貴山縁起絵巻で有名な信貴山朝護孫子寺も町域に属する。

中世後期には、しばしば大和国を動かす中心地となる。1536年(天文5年)に木沢長政が信貴山城を築城、後に大和に入った松永久秀もこれを補修して居城とし、大和攻略の拠点とした。久秀の滅亡後は城は廃城とされている。

平群町 - Wikipedia

 町の名前の由来は、古代氏族の平群氏です。歴史が長いです。 

平群氏(へぐりし)は、武内宿禰の後裔と伝えられ、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ。姓は臣(おみ)、後に朝臣。

『日本書紀』の所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が国政に携わるようになった。葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。

これ以後、平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した。

平群氏 - Wikipedia

 今で言えば、総理大臣になるくらいの勢力があったのですが、色々やりすぎて討伐されてしまったみたいです。平群真鳥は、竹内文書を書いたとされている人のようです。良くわからないですけど。

竹内文書(たけうちもんじょ/たけのうちもんじょ。磯原文書、天津教文書ともいう)とは、神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻んだ石、鉄剣など、一連の総称で、いわゆる古史古伝の書物であり、偽書とされている。

竹内文書 - Wikipedia

戦国時代には信貴山城がありました。松永久秀が織田信長に攻められて、平蜘蛛の釜に火薬を詰めて爆死。ど派手な死に方のため、歴史小説にたびたび登場します。

 

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松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。別名 松永弾正 (まつなが だんじょう)。大和の戦国大名。
略歴

出身地は山城国とも播磨国ともいわれる。父は不明。嫡男に松永久通、養子に松永永種、また弟に松永長頼がいる。

はじめ三好長慶に仕えたが、やがて三好家家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。

一説には、第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者などとも言われる。

北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、信貴山城近郊の人々からは、連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られている。

松永久秀 - Wikipedia

平群には、もう1人戦国武将がいます。島清興です。平群の在地領主であり、筒井家家臣として松永久秀とは敵対していました。

 

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島 清興(しま きよおき)は、安土桃山時代の武将で石田三成の家臣。通称である島 左近(しま さこん)の名で一般に広く知られる。本項目でも、特に断りが無い限りは「左近」と表記する。実名は俗に勝猛(かつたけ)などともいうが、文書から確かなのは清興である[1]。

「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの人物であった。娘(珠)は柳生利巌の継室で、剣豪として名高い柳生厳包は外孫にあたる。

出自

島氏[2]は今の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主で、椿井城を本拠にしていたとされる[3]。 島氏の出自は明らかでないが、本姓は藤原姓であるという。また、清興の出身を対馬国とする説もあったが、現在では大和国出身であることが明らかとなっている。なお、近年では「島左近」は筒井氏家臣である島氏代々の名乗りとする説もある

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、また北からの万一の伊達政宗の裏切りに備えて江戸からなかなか動けないはずの家康の美濃赤坂到着の報に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍側の中村一栄・有馬豊氏両隊に小競り合いを挑み(杭瀬川の戦い)、明石全登(宇喜多秀家家臣)隊と共に完勝した。しかし、その夜に島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は、またもや三成に受け入れられずに終わった(夜襲はそもそも進言されていないという説もある。夜襲策の出典は『日本戦史(旧日本軍参謀本部編)』)。関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立ち奮戦するが黒田長政の鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷、一時撤退する(この時、死亡したとも)。正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなった。左近は討ち死にを覚悟して再び出陣、正面の田中吉政・黒田長政らの軍に突撃し、奮戦した末に敵の銃撃により討ち死にしたという。

最期の折の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となり、黒田隊の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれー!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたと言われる(常山紀談)。江戸初期、筑前福岡城において関ヶ原に出陣し、島を目撃した老いた武将達が島の服装について若侍相手に語り合ったが、物指、陣羽織、具足に至るまでそれぞれの記憶が違い一致するところがなかった。これは島のあまりの恐ろしさが故に記憶が定かではなかったためとしている[7]。

島清興 - Wikipedia

語りだしたらキリがなくなってきました。信貴山の動画を貼って、終わりにします。

【命蓮】信貴山・朝護孫子寺 参詣してきた【毘沙門天】‐ニコニコ動画(9)

 

松浦彰夫 拝

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