弾圧は苛酷なままままに続き、1955年には新たなキャンペーンとして「潜行反革命分子粛清運動が(略して粛反)が行われました。とりわけ知識人を対象にしており、ある情報筋では8万人が逮捕されたといい、別の情報筋は77万人が死んだといいました。あらゆる整風運動がそうであったように、まず、自然発生的な発言ともっとも広汎な不賛成の意思表示とを掻立てておいた上で、つづいて「悪い思想」を露にした連中を粉砕するというものでした。
毛沢東主義社会が真に形成されたのはこの時です。文化大革命のときでさえ、社会を不安定化させたのは一時的に過ぎなかったのです。毛沢東主義社会の基礎は、自身の金言「階級闘争をわすれるな!」にあると言っていいでしょう。実際、この社会ではいっさいが、農村では土地改革のキャンペーンとともに、都市では1951年の「大衆」運動キャンペーンとともに開始され,1955年頃になって初めて完成をみた、個人へのレッテル張りの全般化に基づいていました。きまぐれな社会的区分でしたが、数千万人の人々にとって、これは悪魔のような結果を伴うものだったのです。
社会集団と政治集団を混淆した結果、「紅類」(労働者、貧農、下層中農、党幹部、人民解放軍兵士)と黒類(地主、富農、反革命分子)との二元的な分割となり、さらに2つのグループのあいだに「中立類」(知識人や資本家)が置かれていました。右派分子は公式に名誉回復されたとしても、次の大衆キャンペーンが起こると、格好の標的となりました。このシステムの地獄的な論理は、闘うべき、時には打倒すべき敵が必要であり、そこで、敵の「ストック」は絶えず補充されるべきだという点にありました。
このような分類法は言葉のマルクス主義的意味での社会階級より、むしろ,インド流のカーストに近いものといえました。レッテルの世襲化は社会を恐ろしく硬直化させ、「悪い生まれの」人々を絶望の中に投げ込むのに貢献したのです。実際「黒類」の人々にたいしては入学、就職、政治生活への参加の場合など、差別が伝統的に貫徹されました。「紅類」の配偶者と結婚するのは非常に難しく、社会は常に彼らを排除追放しがちでした。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
都市:「サラミ戦術」と財産没収
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo
写真:asahi.com










