倉橋正幸のブログ記事 1 / 9

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「黒五類」の出身者である彼らは、自分たちの労働や価値や大望にふさわしいポストをいつの日か手に入れるような現実的なチャンスを与えられないことに欲求不満を抱いていました。このような結果から「黒五類」が学生のなかの多数派を占めていたエリート的な学校こそが、しばしば最も革命的となったのです。それで「紅衛兵」が「生まれの悪い人々」にも正式に拡大されることが1966年10月1日に中央文化革命小組によって布告されました。

紅衛兵グループの結成が許可されると、この運動は決定的な拡大をみせました。この機会に、文化大革命の初め以来、労働者に押し付けられていた否定的な政治的評価のすべても取り払われたのです。名誉回復された人々は、「右派分子」など貼られたすべてのレッテルの取り消しと、身の上記録が記入された秘密のカードの破棄を勝ち取ろうとしました。

また、その時、2種類の工業労働者が大挙して学生と高校生の群れに加わりました。1つめのカテゴリーは、年齢の如何にかかわらず、「後進的分子」と、政治的基盤に基づくその他の被差別者であり、もう一つのカテゴリーは雇用の保障も、労働組合の保護も無い、季節労働者と日雇い労働者でした。後者は概して若く、新しい大工場のプロレタリアートの多数を形成しており、給料の値上げと恒常的契約を要求していました。これに加えて、急速な昇進の機会をうかがう一握りの若い幹部や、かつてなんらかの理由で処罰を受け、報復心に燃える責任者や、さらに、いつもその時々のオオカミと一緒に吠えたがる(真っ先に裏切るのも彼らだ)日和見主義者などの連中もあげることができます。要するに、すべての権力の攻撃に乗り出した不満分子の雑多な連合ができあがったのです。

しかし、彼らは都市住民の20%程度の少数はであり、彼らが成功しえたのは、国家が中央部の攻撃によって麻痺させられた場合と、人民解放軍が中央の指示によって厳しく規制された場合とに限られていました。結局のところ、革命を後方から動かしていたのは毛沢東だったのです。その毛沢東ですら、力関係のめまぐるしい変化や、地方による多様な状況や、さらに反抗と帝国の維持、この双方の折り合いをつけようとする彼のたえざる探求を考慮すると、時には何をすべきかわからないことがあったほどでした。「造反派」がひとたび「権力を獲得すると」、彼らの内部矛盾や利己的な野望がただちにむきだしになって前面に出、そこから、何々に反対としか自らを規定出来ない分派間の容赦ない闘いが引き起こされたのでした。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

中央機構内部にあり大躍進の破滅的失敗に見舞われた毛沢東は、1962年以降、国の実質的指導を劉小奇・共和国主席に譲らなければなりませんでした。党主席という、威信だけはある地位に追い込まれた毛沢東は、生きながら疎外された存在へになることを恐れ、自分の根本的な選択を押し通す役割を演じられる有能な仲介役を探していました。毛沢東は、1957年の粛清の時に幹部と知識人の大半の支持を失い、また、1959〜1961年の飢饉の際には多数の農民の支持をも失ったことを意識していました。しかし、共産主義中国のような国では、受け身な多数派、一人一人がバラバラで、おびえている多数派というものは、戦略的一に陣取った活動的な少数派に比べれば大した存在ではありませんでした。

1959年以降、人民解放軍は「偉大な舵取り」に忠誠を誓う林彪(りん・ぴょう、リン・ピャオ、1907年12月5日 - 1971年9月13日)に指揮されていました。軍事訓練は学生にとって義務となり、武装民兵は1964年以降、人民解放軍により工場、街区、農村地区に組織ないし再編成されました。軍隊は、当時も将来も、決して権力に取って代わる組織ではありませんでした。しかし、毛沢東にとって軍隊は、彼の「生命保険」であり、あるいは彼自身が述べているように彼の「万里の長城」だったのです。また、毛沢東が頼りにしていた戦略的な要素とは、中等教育、高等教育、および職業教育学院に就学していた世代でした。彼らは都市部、とりわけ最大規模の市に集中しているとい強みがありました。都市部こそ、権力の為の闘争が展開される場所となるだろうからです。

1949年の革命後にまるごと教育された最初の世代である彼らは、まだ若く、あまりにも都会的で、大躍進の惨禍について何も知りませんでした。この世代は毛沢東に「真っ白なページ」であると説明され、「世界は君たちのものだ。中国の未来は君たちのものだ」と保証されたので、紅衛兵の歌の歌詞どおりに「党は我が母、我が父」で有ることを早くから知っていました。そして、万が一親子関係にもめ事が起こった場合でも、選択は明快で、生みの両親を否認すべきものでした。

しかし、同時に小さなロボットとしてふるまうように仕込まれた若者たちは、親の世代から革命家や戦士としての武勲を聴かされていた為に、自分ではヒロイズムを発揮できない不満を感じていました。そのため、1966〜1968年の対決の際に、長征や、抗日ゲリラなどを進んで模倣する行動にでることになるのです。マルクス流に言えば、もう一度、しかし今度は喜劇の形で、歴史は繰り返されようとしていたのです。

@今回の橋前勇悟の金融時事経済の内容は「ハイパーインフレ」でした。いつも判り易く説明されているので、経済が苦手という方にもお勧めです。さらに、橋前氏は毎週、秋月便りで経済コラムを執筆されているのですが、ラジオでは放送できない内容なども記載されているので、今後の経済について気になる方は是非「秋月便り」も購読してみましょう。

 

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

1966〜1967年に最もラジカルな集団自身、最も公然と国家体制を攻撃した諸集団自身は、常にその片足を国家の中に置いていました。国家の中の保証人として毛主席がおり、中国の根強い伝統に従って、反抗においてまで権力の論理を組み込んでいたのでした。

文化大革命のあいだ中、何度も見られたのは下部の上部に対する戦いでしたが、ここでいう下部とは、自分の実名を名乗らない権力エリートによって動員され、操作され、分割され、恐怖に陥れられていたそんざいです。批判や打撃を相手に浴びせながらも、絶えず相手を模倣することをやめない、権力自身による権力による乗り越えこそは、毛沢東主義の決定的スタイルでした。これは、反抗と帝国という対の概念を、国家と社会を超越した政治過程創始のための代案なるものの永久原理にしてしまいましたが、成り立つはずのない代案でした。なぜなら、反抗に意味を与えた人々の欲求不満の上に基づいていたからです。

魏京生は彼の自伝のなかで、正当な不満から噴出した運動の、致命的な矛盾に光をあてています。政府をよりよく守るためにしか政府に対して立ち上がらない人民。人民は彼らを隷属させてきたヒエラルヒー制度に反対はしたけれども、この制度の創始者に支援の旗を振りながらのことだったこと。また、民主的な権利は要求したけれども、民主主義に軽蔑の支援を投げながらのことだったこと。そして、権利獲得のための闘いにおいて、独裁者の思想の言いなりになることを望んだということ。


文化大革命は「大衆キャンペーンであるより、はるかに深い意味でもう一つの革命でした。(模倣された、道をはずした、擬似的な革命という意味いおいて)文化大革命は3つのおおきなカテゴリーに分けられます。

①知識人と政治幹部に対する暴力行為(1966〜1967年)
②紅衛兵同士の分派闘争(1967〜1968年)
③軍隊によって実行された手荒な整頓工作(1968年)

以降は共産党第九回大会(1969年)とともに毛沢東の後継をめぐり宮廷闘争がはじまり、急激な展開が相次いで起こりました。1971年9月に後継者として公式に指名されていた林彪が排除され、1973年には鄧 小平が副総理職に返り咲き、1974年には指導機関内「左派」の攻勢がありました。1976年「上海4人組」による中枢部掌握の企てが有りましたが、同年10月以降、四人組は収監されてしまいました。そして、以後2年にわたり国の支配者となった華国鋒(かこくほう)は、文化大革命の終焉を宣言することができたのです。

文化大革命は、中国現代史の他のエピソードにもまして世界中に衝撃を与えました。言説といくつかの行為の極端なラジカリズムととともに、革命の舞台が都市部であり、政治家や知識人の階層に凝宿して現れたものでした。しかも、文化大革命はテレビの時代にふさわしく、熱情に溢れた数々の政治的儀式の見事な映像を世界に提供しました。革命は、それまでの諸運動と違って、終結するとほとんど同時に、中国自体においても公式に断罪され始めました。古くからの共産党の幹部や指導者に対する紅衛兵の暴虐ぶりを告発することは常套句となりました。もっとも、その直後の「秩序」への復帰段階において人民解放軍が犯した虐殺にこだわることは明らかにそれほど歓迎されませんでした。

文化大革命の第一の逆説は、最も熱狂的な過激主義が、成功の一歩手前まで達したように見えたとき、(わずか1年ちょっとでほとんどすべての権力中枢を一掃し、強固に制度化したように思われていた革命過程の再出発の瞬間においてさえ)文化大革命は都市部に部分的運動として、ただ青少年学生のあいだでのみ覇権をふるう運動としてとどまっていたという事実です。これに反し、当時核武装に専念していた科学研究にも、農民階級にも、軍隊にも手をつけないことが「中央文化革命小組」自身によって決定されました。これはより高く飛躍する為の一歩後退でした。つまり、社会および国家のいかなる部門も、本来は革命化を永久に免れてはならないということです。しかし、農村住民の大部分は「ささやかな自由」と自留地とに固くしがみついていました。また、防衛能力を破壊することも、経済を破壊することも問題外でした。最近の大躍進の経験に照らし合わせても、後者の点について彼らは慎重でした。前提となるのは、知的・芸術的「上部構造」内の権力奪取であり、国家権力の征服だったのです。しかし、この目的は達せられることはありませんでした。

1950年代の粛清とは大きく違って、特定の住民層を一掃するという目的が打ち出されたことは一度もありませんでした。最も犠牲者が多く出たエピソードは、全体としては「失態」の結果、すなわち、総体的計画もない、地域的規模での比較的自然発生的な暴力の結果、生じたものでした。土地改革よりも、すでに1989年6月の弾圧(第二天安門事件)に近いといえます。おそらく文化大革命は、革命的エネルギーを失った中国共産主義の行き詰まりの最初の兆候として残るに違い有りません。

 

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
文化大革命:アナーキーな全体主義(1966〜1976)

共産主義黒書 第一部はこちら Crescendo

毛沢東の警察は尋問方法に磨きをかけ、誰もが抵抗しようがないほどの洗練度に達していました。彼らの目的は、ありしもない犯罪を囚人にあげさせることよりも、腐敗し、有罪であり、処罰に値すると囚人に認めさせることにありました。囚人にはいかなる弁護の手段もありませんでした。なぜなら、逮捕されたことが、彼の有罪性の議論の余地のない絶対な証拠だからでした。

判決が言い渡されると、受刑者は労働収容所に送られました。まず、12時間続く重労働に耐えられる能力を採点され、その労役は、拘禁センターと同じく日に2回の粗末な食事しかでないため、一層消耗の激しいものでした。「高成績労働者」への食料配給制を設け、労働成績は監房や大部屋のレベルでも考慮の対象となりました。そのため、幹部層の最大幸福のために、だれが一番働くかという(16時間、18時間ぶっづけで)集団競争がはじまることになりました。

衣類は逮捕されたときに着ていたものをその後何年間も着ているのが普通でした。冬の上着は中国のシベリアともいうべき満州北部の収容所でしか支給されませんでした。食料の平均配給量は、月に穀物12キロから15キロのあいだでした。これは、王政復古時代のフランスの徒刑場より、ソビエトの収容所よりも少なく、1975〜1977年のベトナムの収容所とほとんど同じだったのです。そのため食料泥棒が横行する一方、農場では「自主的食料補給(たとえばネズミを乾燥させて食べる)」が行われました。医療は最低限度しか存在せず、虚弱すぎるもの、高齢過ぎる者、助かる見込みの無い者は収容所へと送られ直ぐに死んでいくのでした。

受刑者がたどった軌跡は、国がたどった軌跡に合致しました。受刑者が「労改システム」と呼いう生活の場で経験を積んで行くに連れて、システムの独創性であるあずの再教育を強調する面は、次第におろそかになっていったのです。受刑者のあいだにますます頻繁に暴力団が組織されていくうちに、中央機関の支配力は少しづつ緩んでいきました。幹部は服従とヒエラルキーの尊重を、自分の側が譲歩するか、あるいは新たに暴力を行使して、勝ち取らなければなりませんでした。

一方的には、自分を今以上の者に高め、向上をはかり、身を清めて、輝かしい未来をめざして前進するプロレタリア大衆に加わるという呼びかけがあり他方には、どんなに努力しても、囚われの身で生涯を過ごすという現実がありました。自己改善可能性にかんするかなる言説も、運命に支配された社会の過酷さを隠しきることはできませんでした。これと同じ、耐え難く非人間的な矛盾こそが、文化大革命という社会の内的爆発を引き起こし、さらには、矛盾が解決されないがゆえに、大革命の失敗をもたらすことになったのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
労改(ラオガイ)ー隠された<グラーグ>

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私は取調官から渡された巻き紙を取り出してみると白紙の代わりに最初のページには「最高指示」という表題のもと、赤い枠の中に毛沢東の引用文が書かれていた「彼らは従順であり服従するしか権利をもたない。彼らは自分の番でない時は、話す権利も行動する権利ももたない」紙の下には「犯罪者の署名」と書かれているのが読めた。
「犯罪者」という侮辱的な語を見て、怒りが込み上げてきた私はその下に署名しないことに決めた。しかし、この状況を利用して、毛沢東主義者に反撃する手段を思いついた。私は毛沢東の引用文の下に、もう一つ枠を書いて、同じように「最高指示」とタイトルを付け枠の中に毛沢東の別の引用文を書き込んだ。「反革命のある所はどこででも、当然われわれはそれを抹殺しなければならない。われわれが誤りを犯したときには、当然われわれはそれを訂正しなければならない」

予審の目的は自白と他人への告発を手に入れることでした。告発は受刑者の「誠実さ」を認定すると同時に、警察機関への見方に根拠のある意味を与えるものだったのです。3つの告発があれば逮捕出来るという規則であって、そのようにして逮捕の連鎖が続いていくのです。被拘禁者を参らせるための方法はかなり古典的な警察的手法でした。彼自身の矛盾点を指摘し、警察は彼のすべてを知っていると言い張ること、彼の告白を他人の自白や告発と対決させることでした。

予審過程が終わった段階で「判事と被疑者との合作」になり「正確な事実の意味的な転覆」に相当するような、有罪についての「真の物語」ができていなければなりませんでした。「犯罪」は現実の生活に基づき、それなりの論理的整合性を持つはずですが、その生活とは、絶望的な政治的反対派の一貫した表現であると全面的に解釈し直されたものでした。たとえば、国外への手紙で大躍進時代の上海における穀物の配給量の減少に言及することは、スパイ活動の証拠となる,という具合に。たとえその数字が公式の新聞に発表されており、上海市の外国人社会は誰もが知っているものであっても。

参考:中国人との偽装結婚に高齢者がこぞって参加、20代“娘”を…

参考:「まあカタギに戻る手段はないよ」全体20%占める高齢受刑者

少子高齢化社会ですから高齢者の老害が目に余るようになってきました。もともと国家というのは甘えさせてくれるような存在ではありません。納税やその他の義務を果たすことで個人の自由や財産を保証する、社会的な契約に基づいています。歴史から学べば今後の未来は既に見えているのです。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
労改(ラオガイ)ー隠された<グラーグ>

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中国では、有罪だから逮捕されるのではなく、逮捕されたから有罪なのです。いっさいの逮捕は、毛沢東が主席である共産党に支配された「人民政府」の一機関の警察によって行われました。ですから、逮捕の正当性に異議を申し立てることは、毛沢東の革命路線に反対することであり、反革命分子としての自己の本性を一層暴露することになりました。自分の犯罪を認め、万事において服従すること、これが唯一許された道でした。

この精神システムの以上な論理によれば、被告人自身が自分の逮捕の理由を提供しなければなりません。数ヶ月の作業、数百ページにわたり、数十年の人生を物語るような、自白書の執筆であり、長期にわたり繰り返され、時には3000時間に及ぶことすらある尋問でした。「党には時間はたっぷりある」とはよく聴かされた言葉でした。取調官は頻繁に、睡眠の剥奪や、非常に重い刑罰の脅しや、さらに稼働中の拷問室への恐ろしい見学などの手段に訴えたのです。

いづれにせよ、1950年代半ばと文化大革命の間の時期は、厳密な意味での肉体的暴力がふるわれていることは稀でした.拷問に似たすべての行為や、殴打や侮辱でさえ厳禁とされ、被拘禁者もそれを知っていました。ゆえに、「失態」が有った場合、婉曲な形の暴力に訴える手段として「試練」(他の囚人からの殴打は許されていた)を受けさせるか、暖房も無く、空気もめったに通らない残忍な懲罰房に閉じ込める処置が使われました。懲罰房は横になれないほど狭く、たいていは鎖につながれていたため、排泄や食事はほとんど不可能でした。飢えた囚人は、制裁が一週間以上長引くと、ほとんどの場合死んだのです。

特別の手錠をはめさせ、囚人の手首を締め上げることは、毛沢東の刑務所できわめて広く行われていた拷問の形態でした。囚人が食べることも飲むことも、便所に行くこともできないようにすることもありました。その目的は、個人を貶めることにより、その士気を失わせることにあったのです。人民政府はあらゆる形態の拷問を廃止したと主張していたので、これは公式には「懲罰」または「説得」と呼ばれていました。

 

出陣 ver

勇気を持って参加しよう!

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
労改(ラオガイ)ー隠された<グラーグ>

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食料ーこれこそ、全監獄制度の中で唯一大事なものであり、最大の喜び、最も強いモチベーションでした。薄く水っぽいトウモロコシ粉の粥、固く小さいパン、そして、野菜の切れはしが生活の中心になり、最も深い関心尾基本的な対象となりました。労働収容所という所では食料の質と豊富さついておよそ考えられないような噂話や夢のような話が飛交っていました。こうした食事が一年も続くと、食料を手に入れるためだったら、どんなことでも認めようという気になったのでした。

以前はひどくなかった食事も「百花斉放」の時期に,人民代表団が刑務所を視察に来たとき、囚人が腹いっぱい食べているのを見て憤慨してから変化しました。社会の屑であり、人民の敵である反革命分子が、多くの農民より高い生活水準を享受しているのは許し難いと結論したのでした。1957年11月を境に、米も、肉も、小麦粉も祭日の食事から姿を消したのでした。

囚人に圧力をかける古典的な手段は人参を与えることでした。つまり寛大な処置をとるとの約束を与えるのです。自分の「犯罪」をすべて告白した場合、模範的に振る舞った場合、仲間の「更生」に積極的に貢献した場合、そしてまた、従順でない同囚人者を告発した場合でした。そいうわけで、重い判決を受けた多くの人は数年でも刑を軽減してもらえるのではないかと期待して、熱心な宣伝家としてふるまいました。しかしながら、彼らはほとんど見返りを得ることは無かったのです。


ある年取った囚人はこの間の秘密を次のようにあばいています。「共産党員は、敵と交わした約束を守る必要は無いと思っている。彼らは自らの目的をとげる手段として、役に立つならどんな卑怯な手口や策略でも使うのを躊躇しないー脅迫や約束も含めてだ。もう一つ覚えておきたまえ。共産党員は変節するような人間には、これぽっちも敬意を持たないものだ」

人参に対する鞭はもっと実質的でした。告白の強要に屈しない者、告発を拒否する者、判決に対し控訴し「大衆の意思」を認めないとするもの、これらの者は新たに重刑を宣告されたたのです。似たような状況下に置かれれば、およそ囚人なるものの圧倒的多数が服従の外的兆候を示すようになります。再教育の効力は、心理的プレッシャーを加える手段であり、一つは、党と管理局が父母の役を演じて、話し方や歩き方や、食欲や衛生の管理の仕方に至るまでを、絶対的従属関係のなかで囚人に教え直すことで、もう一つは、被拘禁者の妻を離婚に追い込むなり、子供にその父親を否認させるなり、真の家族との接触をほとんど不可能にしておいたうえで、代理家族と呼んだらいいのか、身振りや言葉の一つ一つに責任を持ってくれる集団へ囚人を融合させることでした。

出陣 ver

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第一章 中国
労改(ラオガイ)ー隠された<グラーグ>

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収容は被拘禁者の改造と「新しい人間」への変革を促しました。

公安部の内部資料によると、被疑者は次のような過程を通過すると記述されていました。まず、自分の罪を認めたあとでなければ法に従うことはできない。罪を認めることは必要な前提条件であり、法への服従は改造の始まりである。つまり、罪を認めることと法を遵守することは、受刑者に最初に教えるべき教訓であると。

過去との決別を実現したとき、囚人の頭脳に「正しい思想」が浸透しはじめる。犯罪者の政治的思想を正しい方向へ戻す為には、4つの基本的教育原理を確立することが絶対必要だ。すなわち、マルクスーレーニン主義、毛沢東主義と社会主義への信念、共産党、人民の民主独裁である。

囚人の中に「進歩」の不十分な者がいるか、あるいは政治キャンペーンの期間中の場合学習時間は昼間まで延長され、1週間あるいは1ヶ月続くこともありました。「
ノンストップ学習」は多くの場合2週間から3ヶ月に渡り,刑務所世界へ同化するための研修期間の役割を果たしたのです。

目的は、党に絶対服従する大衆のなかに個々人を融合させることにあり、個人の人格を放棄させることにありました。「政府を前にしてわれわれは共に学び、互いに監視し合わなければならない」というのがスローガンで、それは刑務所内のいたるところに書かれていました。「われわれ全員が罪を犯したのはきわめて悪い思想を持っていたからにほかならない」と監房長(彼自身囚人であった)は断言し、その咎は資本主義、帝国主義、反動的思想による汚染に帰せられました。何一つ政治から逃れられないこの社会では、すべての罪はつまるところ政治次元のものでした。

出陣 ver

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第一章 中国
労改(ラオガイ)ー隠された<グラーグ>

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同じ収容所内には労教、すなわち「労働による再教育」に割り振られた人々がいました。この集団の犠牲者は刑の宣言も受けていなければ、公民権も失っておらず、わずかな給料も受け取っていました。実際は拘禁には期限が無く、収容所には投票所が無く、食費と居住費として給料のほとんどが天引きされていました。彼らが犯したとされる違反行為は軽微で、労教で過ごす期間は原則として数年を超えることはなかったのですが、その長短は態度次第ということを幾度も思い知らされました。公安部は労教と労改の両方を管理していたため、双方の拘禁・労働条件は近いものでした。

「自由労働者」とよばれた「特権的」な集団が就業という「職業を強制的に割り当てられた者」たちでした。彼らの自由は制限付きのもので年に1回か2回は外出許可が出る以外は収容所を離れる権利はありませんでした。労教より待遇はよく、給料は少しはましで、家族を呼び寄せ、結婚もできるのですが、半刑務所的状況での生活は変わりなかったのです。

職業も、都会に住む権利も失い、離婚して、生涯被疑者である彼らにとって最も悲しいのは、多くは他に行き場がなく、この境遇に甘んじなければならないことでした。何の希望もない自由労働者は、怠け者で、未熟練で不潔でした。見るからに彼らは何一つ試みる値打ちも無いと決めているようだったのです。これら自由労働者は身の回りに何が起ころうとすっかり馬鹿にしていました。毛沢東の治下においては、有罪判決という有罪判決は実際上ほとんど終身刑だったといえるでしょう。

*「見るからに彼らは何一つ試みる値打ちも無いと決めているようだったのです」まさに現代の日本社会を反映しています。「自由」という名の「不自由」を強いられながら気づくこともせず、見ても見ないフリをしながら日々を過ごすのなら、収容所に拘禁された人々と同じ結末を迎えるでしょう。これらの不幸に巻き込まれないためにも 平成22年8月13日(金)に行われる懇親会に参加してみてください。

参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
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第一章 中国
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