活動家たちも毛沢東も、すべての困難は農民による穀物の隠匿であると確信していました。少なくとも1万人の農民は投獄され、多くは飢え死にしました。また、厳しい冬が近づいているにもかかわらず火の使用まで禁じられてしまったのです。弾圧の暴走は恐るべきものであり、何千人もの被拘留者には拷問が加えられ、子供たちは殺され、ゆでられ、ついで肥料として使われたのでした。
「たとえ99%の者が死んでも、紅旗を維持する」と宣言され、幹部は生き埋めと焼きごてによる拷問とを復活させました。生き残った人が怯え、葬儀が事実上の抗議運動に転化することを恐れたため、葬式も禁止されました。「受け入れれば受け入れるほど、それだけ捨てる者が多くなる」とされ捨て子を受け入れることも禁止されたのです。絶望し都市へと逃げ込もうとした人々の多くは射殺されました。飢饉による死亡率は村によっては50%を超え、権力を濫用した幹部だけが生延びることができたのでした。人肉食のケースは数多く、組織を通じて食べるべき子供を交換しあったのでした。
ガガーリンが宇宙に飛び出したころ、ヨーロッパのアンシャンレジーム下に見られたような、生存を巡る大危機に固有の荒廃ぶりが再現されました。18世紀の全世界の人口と同じ規模にあたる住民が被害を受けました。飢えた人々は病気や感染症にかかりやすくなり、死亡率は拡大し、消耗しきった女性の妊娠能力や出生能力はほとんど停止したのでした。労改の被拘留者は、製パン用の小麦粉に30%の製紙用のパルプを混ぜたものとか、米粥に沼のプランクトンを混ぜたものといった類の、飢饉用代用食の実験用モルモットとしても使われました。パルプのパンでは収容所の全員がすさまじい便秘にかかり、多くが死に、プラン九トン粥でもやはり全員が病気になり、か弱い人々は死んでいったのです。
飢饉による高死亡率に関する損失数は、1959年から1961年の間に2000万人から4300万人と推定されます。中国の全歴史上ほとんど間違い無しに最も深刻な飢饉であり、また、おそらく世界史上でも最も深刻なものだったといっていいでしょう。1932年から1934年のあいだにソ連を襲った飢饉では500万人の死者を出しましたが、比率の上では大躍進期の中国より小規模だったのです。農村での死亡率は、正常時の都市の死亡率を上回り、1960年の農村死亡率は都市のそれの2倍になったのです。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
史上最大の飢饉(1959ー1961)
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
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農村勤労者はあらゆる労働に動員され疲弊しきっていました。「経済的妄想と政治的欺瞞」の結合の結果、農民には取り入れる余力すら残っていない悲惨な収穫高でした。河南は水利工事が100%完成したと宣言した最初の省でしたが、それはまた、飢饉によって最も酷い打撃を受けた省の一つでもありました。推定でも200〜800万人の死者を出したと言われています。
1959年7月、彭徳懐(ほうとくかい)が共産党政治局で毛沢東の戦略を攻撃したため、毛沢東は政治戦術的理由から己の非を認めまいとして、どんな難問も存在するのを認める事を拒否しました。毛沢東は自分の地位を揺るぎないものにしようとして、1959年8月大躍進の再開と深化を押しつけ、以後、人民公社は都市にまで拡大されると約束されました。中国は大飢饉に見舞われました。それでも毛沢東は生き延びるのでしょう。なぜなら歴史をつくるのは天才たちなのだから。
飢饉は国全体を襲い,北京ではバスケットボールのコートまでが野菜畑に変わりました。しかし、備蓄食料の配分と権力機関の近接性の点で恵まれていた都市では、打撃はそこまでひどくありませんでした。1961年の時点で食料配給率は都市住民で減少率8%であったのに対し農村住民は25%減少しました。毛沢東は中国の支配者の伝統に忠実に、農民という人々の存在についてさえほとんど心遣いを見せることはなかったのでした。
ヨーロッパの過去の飢饉の例によれば、工業作物(サトウキビ、採油植物、ビート、綿花)に特化した地域では、ひときは厳しい飢餓に襲われたとき、飢えた人々はもはや製品を買う手段も無いので、生産が崩壊してしまうようです。飢饉が本質的に政治次元のものだったことは、正常時はむしろ穀物を輸出する省なのに、当時過激な毛沢東主義者に指導されていた省にきわめて高い死亡率が集中していた事実によって証明されます。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
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第一章 中国
史上最大の飢饉(1959ー1961)
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数ヶ月のあいだ、すべてが完璧に進行しているように見えました。「もっと多く、もっと早く、よりよく、そしてより経済的に」生産し、責任者は新記録につぐ新記録を発表し、その結果として目標は絶えずはね上がることとなりました。主席が保証するとおり、「状況はすばらしい」のだから、生産ノルマは引き上げられ、義務的な供出量は増加し、作業場建設のために農地を更地にするように命令されました。
しかし、幹部は自らの罠にはまりこんでしまいました。ーーー楽天主義の罠、百戦百勝を重ねた成功の罠、戦闘中の軍隊でも指揮するように経済と労働者を管理するのに慣れた、長征生え抜きの神話的指導者は万能だという思い込みの罠へと。幹部のとっては、耐え難いほど住民を搾りあげてでも、何とかして予定通りの引き渡し額を供給するために、統計の数字をいじることの方が、神聖不可侵な目標を達成できなかったと告白するよりリスクが少なかったのです。1958−1959年には、うそが大きければ大きいほど、嘘をついた者の昇進は早かったのでした。潜在的な批判者は牢獄か灌漑工事の現場行きだったのです。
ソ連アカデミー会員から直接輸入された、遺伝学の主意主義的否定に基づくある種の農学的方法は、ソ連におけると同様、中国でも教条的価値を帯びていました。農民に押し付けられたとき、それらの方法は悲惨な結果をもたらしたのです。超過密な播種は若い苗を枯らし、深耕は土地を干上がらせました。あるいは塩分を地表へと浮き上がらせたのでした。その他の誤りは、穀物を食べる雀を皆殺しにすると、寄生虫が急増したのでした。また、数多くの水利工事が行われましたが互いに調整がとれておらず、工事は役に立たないか、有害でさえありました。しかも、その工事には多くの人命の犠牲をともなったのでした。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
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第一章 中国
史上最大の飢饉(1959ー1961)
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
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「少なくとも毛沢東は一人一人の中国人に茶碗一杯の飯を与えることに成功した」という間違った神話があります。歴史を通じてまれに見る規模の、農民に課せられた努力にもかかわらず、ほとんど変化は起こることはありませんでした。とりわけ毛沢東と彼がつくりあげたシステムは、あらゆる時代とあらゆる国をひっくるめても、最大多数の死者を出した飢饉として今に残り続けている出来事に対して責任があるのです。
毛沢東の目的が同朋を大量に殺すことではなかったとしても、飢え死にした数百万の人々のことを、毛沢東は気遣うことはしませんでした。この時期の彼の主な気がかりは、彼自身が糾弾される可能性があると知っていた現実を最大限に否認することでした。共産党指導部の、とりわけその主席の、経済分野における無能力、国に関する誤解、思い上がりのなかでの孤立、主意主義的なユートピア主義を強烈に出していました。
1957年の豊作に力づけられた毛沢東は気の進まない農民にたいして、大躍進の諸目標を、さらに1958年には大躍進に到達する手段と想定された人民公社をも、提案し押し付けたのでした。この大躍進政策とは、「三年間の努力と欠乏、千年間の幸福」をスローガンに、きわめて短期間で農民の生活様式を一変させる企てでした。具体的には、農民は数万家族に編成され、食事から、すべてが共同のものになり、また、新しい耕作方法により、農業生産を飛躍的に発展させるという企てでもありました。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
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第一章 中国
史上最大の飢饉(1959ー1961)
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
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弾圧は苛酷なままままに続き、1955年には新たなキャンペーンとして「潜行反革命分子粛清運動が(略して粛反)が行われました。とりわけ知識人を対象にしており、ある情報筋では8万人が逮捕されたといい、別の情報筋は77万人が死んだといいました。あらゆる整風運動がそうであったように、まず、自然発生的な発言ともっとも広汎な不賛成の意思表示とを掻立てておいた上で、つづいて「悪い思想」を露にした連中を粉砕するというものでした。
毛沢東主義社会が真に形成されたのはこの時です。文化大革命のときでさえ、社会を不安定化させたのは一時的に過ぎなかったのです。毛沢東主義社会の基礎は、自身の金言「階級闘争をわすれるな!」にあると言っていいでしょう。実際、この社会ではいっさいが、農村では土地改革のキャンペーンとともに、都市では1951年の「大衆」運動キャンペーンとともに開始され,1955年頃になって初めて完成をみた、個人へのレッテル張りの全般化に基づいていました。きまぐれな社会的区分でしたが、数千万人の人々にとって、これは悪魔のような結果を伴うものだったのです。
社会集団と政治集団を混淆した結果、「紅類」(労働者、貧農、下層中農、党幹部、人民解放軍兵士)と黒類(地主、富農、反革命分子)との二元的な分割となり、さらに2つのグループのあいだに「中立類」(知識人や資本家)が置かれていました。右派分子は公式に名誉回復されたとしても、次の大衆キャンペーンが起こると、格好の標的となりました。このシステムの地獄的な論理は、闘うべき、時には打倒すべき敵が必要であり、そこで、敵の「ストック」は絶えず補充されるべきだという点にありました。
このような分類法は言葉のマルクス主義的意味での社会階級より、むしろ,インド流のカーストに近いものといえました。レッテルの世襲化は社会を恐ろしく硬直化させ、「悪い生まれの」人々を絶望の中に投げ込むのに貢献したのです。実際「黒類」の人々にたいしては入学、就職、政治生活への参加の場合など、差別が伝統的に貫徹されました。「紅類」の配偶者と結婚するのは非常に難しく、社会は常に彼らを排除追放しがちでした。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
都市:「サラミ戦術」と財産没収
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
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1949年に台湾と香港への流出を遅らせる為に赦免された国民党の元政治家・軍事幹部は2年も経たたないうちに殺されました。刑法の制定も弾圧を容易にするのに貢献し、「反革命分子」と「現行反革命」と「歴史的反革命」に区別し後者をも罰することにより、犯罪遡及(そきゅう)の原則を導入したのです。さらに犯罪を犯していない被告人を、「類推」によって裁くことも可能となりました。(遡及=法律や法律の要件の効力が、法律の施行や法律の要件の成立以前にまで、さかのぼって及ぶこと。過去にさかのぼって、効力を及ぼすこと。)
1957年に毛沢東地震が、この期間に一掃された反革命分子とおして80万の数字を挙げています。都市での処刑件数は少なくとも100万人の大台に達しました。都市においてこそ抑圧が最も厳しく、250万人が「労働強制所」に拘留されました。都市での粛清の形態は実際のところ、ソ連で行われたような秘密のベールに包まれたやり方と異なっていたのです。
労働者は街道委員会の指導のもと、資本家に対し帳簿の公開、批判の受け入れ、自己批判の実行の強制、さらに国家の管理の受け入れを強制しました。資本家がそれを受け入れれば調査グループに参加して同僚を密告するように勧められ、そうでなければ、事態は最初の段階からやり直しとなるのでした。知識人にたいしても、ほぼ同様でした。「服従と再生」の集会に参加して、自分の中に住み着いた「古い人間」を、その疑惑や自立的思想ともども殺したことを見せなければなりませんでした。彼らから逃れる手段は何一つなく、ーーーー伝統に忠実に選ばれた解決策としての自殺だけでした。
企業長は1951年以後、帳簿を公開せざるを得なくなり、1956年にはささやかな終身年金と時には旧会社の技術顧問のポストとひきかえに会社の集団化を「提案」されました(のちの文化大革命は否認されました)。中小企業の経営者は、何もかも巻き上げられて自殺することがしばしばでした。大企業の経営者の扱いは、海外ネットワークの絆を彼らが握っていたので、まだましでした。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
都市:「サラミ戦術」と財産没収
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
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毛沢東は1950年11月の朝鮮戦争への中国軍の参戦に続く先鋭化段階(反革命鎮圧運動)に祭し、進行中の虐殺を公然と承認し「もちろんわれわれは、殺されるに値するすべての反動分子を殺さなければならない」と述べました。しかし、この時点における新たな要素は、終息に向かっていた土地改革ではなく、暴力的粛清の都市への拡大だったのです。
知識人、ブルジョワ、非共産党活動家、自立心が強すぎる共産党幹部など、中国共産党の全体主義的な統制計画を阻害する集団を完全な服従へと追い込むような、一連の「大衆運動」を推進して展開しました。このやり方は、ヨーロッパの人民民主主義諸国の建設期に採用された「サラミ戦術」とそれほどの違いはありませんでした。犯罪者と売春や賭博や阿片の吸引などの社会的疎外者は厳しく処罰されたのです。
統制システムは革命が勝利する前からほとんど出来上がっていました。都市では、国民党が復活させた伝統的な相互管理システム(保甲制)を完成させて、15から20世帯の居住者グループが居民委員会のもとに組織され、この委員会自体がまた街道委員会または社区委員会に従属していました。どのよなものもこの網の目から逃れることはできなかったのです。
どのような小さな責任であっても、それを持つ者は誰もが警察の補助的な役目を果たしていました。警察は最初は旧体制の役人の大半を吸収したものの、利用価値がなくなると、彼らは将来のキャンペーンの際、「自然な」標的となったのです。既存の刑務所の状況といえば、飢餓的な食料配給、労働による極度の疲労、非人間的な規律、さらに恒常的な肉体的暴力が支配していました。
1950年7月に「反革命分子一掃」のためのキャンペーンが開始されました。1951年には国家・党の幹部の汚職浪費、官僚主義にたいする「三反」運動、引き続いて賄賂、不正行為、脱税、職務怠慢、国家機密の漏洩といった「五反」運動、さらには西洋化された知識人にたいして「思想改造キャンペーン」が発動されました。知識人は定期的に「再教育」の研修を受けたのです。党中央に励まされ、公安部という「軍事部門」の助けを得て、書記たちは権力を行使し、濫用することになりました。とりわけ1951年という恐るべき年については「赤色テロル」の語を使うことができるでしょう。
参考文献:共産主義黒書 コミンテルン・アジア編
第二部 アジアの共産主義ー「再教育」と虐殺のあいだ
第一章 中国
土地改革と都市での粛清(1946ー1957)
都市:「サラミ戦術」と財産没収
ナチズムの犠牲者約2500万人に対し、共産主義により殺された人数は1億人に近い。民族・人種によるジェノサイドとイデオロギーによるジェノサイドがどこが違うのか?
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